この記事は
実写映画「恋は雨上がりのように」の感想です。
ネタバレあります。
はじめに
鑑賞してきました。
「恋は雨上がりのように」。
非常に満足度の高い映画でした。
原作を知らなくても問題無く楽しめます。
実写化としては大成功の部類では無いでしょうか。
感想です。
「恋雨」のテーマ
この作品、中心となるテーマを見誤ると評価自体もぶれてしまいます。
なので改めてテーマについて書いてみます。
「その人はどしゃぶりの心に傘をくれた。
夢を失った17歳、夢を忘れた45歳。
ふたり、人生の雨宿り中」
公式サイトのトップに書かれている文言です。
この作品の全てを表しています。
陸上という夢を失ったあきら。
小説家という夢を忘れた店長。
2人は出会い、一時の雨宿りを経て、2人は夢に向かっての歩みを再開しました。
店長の何気ない優しさが土砂降りの心を癒し、夢への復帰を後押ししてくれた。
あきらの純粋で真っ直ぐな「好き」という気持ちは、かつて自分が小説に抱いていたものを目覚めさせてくれて、再び夢に向かって走る切欠をくれた。
原作は、「歳の差という問題を乗り越えて2人が付き合うまでのラブストーリー」ではありませんでした。
「人生の応援歌」です。
「若ければなんでも出来る」とか「若いんだから大丈夫」とか。
人は口を揃えます。
若さってそれだけでメリットですよね。
実際、若い頃は全能感に満たされがちです。
誰しも「自分は何でも出来るんだ」という思い込みがあって、それを糧に突っ走れます。
行きすぎると↑こうなりますが。
でもだからこそ、一度挫けちゃうと絶望しがちです。
「なんでも出来る」と思ってるからこそ、それが一見して無理な状況に追い込まれてしまうと蹲ってしまう。
支えて、寄り添って、背中を押してくれる大人が必要なのです。
「もう歳なんだから」、「若くないんだからね」。
僕が最近よく耳にする言葉ですね。
足下見ろよって本当に良く言われます。
世間的には、中年が見るのは現実だけにしろという忠告なのでしょう。
今を楽しめていない大人は沢山います。
夢を忘れ・諦めた「かつての若者」にとっての現実は、乾いた砂漠を歩いているようなモノ。
瑞々しい気持ちが乾いた心を満たしてくれることもあるのでしょう。
「人生の雨宿り」をしている全ての世代に送る応援歌。
それがこの物語の本質です。
映画では、しっかりと本質が中心に据えられていて、すっきりとした纏まりのある脚本に仕上がっていました。
これが満足度の高い一番の要因です。
デートシーンの比較から見える本物の恋心
あきらがどう立ち直ったのかは詳細に描かれている為分かり易かったです。
彼女中心に原作のエピソードが取捨選択されていましたので。
アニメではカットされた倉田みずきを出して、「同じ怪我から復帰したライバル」を効果的に使い、短い時間の中でも分かり易く丁寧に紡がれていました。
その分店長のエピソードは最低限に絞られていましたね。
だから、原作未読だとちょっと店長の気持ちの移り変わりが分かり辛かったかもしれません。
何で、夢(小説家)を再び持ったのか。
あきらがどう関わっていたのか。
ぼんやりとしてる方もいるかもしれません。
この辺僕なりの解釈を書いてみます。
あきらの店長に向ける純真な恋心。
これは紛れもなく本物でした。
それが端的に表現されているシーンがあります。
2つのデートシーンですね。
先ずあきらは加瀬亮介に強引にデートをさせられます。
桜木町(横浜駅の隣の駅だよ。JR線でのみなとみらいの入口です)で待ち合わせた2人。
あきらは「ラフな格好」でデートに臨みます。
映画館で「寄生獣」(何故この映画なのだろうw)を鑑賞して、カフェへ。
周りは若い女性客ばかり。
その中に2人は溶け込んでいます。
加瀬はあきらに対して言うんです。
「あんなオッサンを好きだなんてキモイ。これは一般論だ」と。
続いてあきらは店長とデート。
服装も髪型もバッチリ決めて(正直可愛かった)桜木町で待ち合わせて、映画館へ。
「寄生獣」を見た2人は、加瀬の時と同じカフェへ。
周りは若い女性客ばかり。
その中で2人は浮いています。
向けられる奇異の視線。
モブを使って、2組のカップリングが世間からどう見えているのか表現していました。
ここは面白い演出だと思いました。
原作でもアニメでも無かった演出!!(と記憶してるけれど、間違ってたらすみません)
一般(ここではこの作品内での一般論を指します)的には、高校生が中年のオッサンと一緒にいるのは変なのでしょう。
突き刺さる不審な目。
あきらだって間違いなく気付いている筈です。
加瀬の時との様子の違いを感じ取っている筈。
それなのに一切動揺も躊躇も見せずに好意を示していました。
あきらが店長に向ける恋心が、どれだけ本気なのか。
それは店長にだって伝わったはずです。
「好き」という気持ちの前に「一般論」なんて関係無い。
その気持ちが本物なのであれば、世間の目なんか気にせずに貫けば良い。
あきらの恋心から見えるメッセージです。
その気持ちに触れ続けたからこそ、店長も夢を再び追い求めることを決めたのでしょう。
彼は現実をよく分かっている。自分の今を誰よりも理解している。
それでも夢に向かっての歩みを再開させた。
これは確かに執念ですね。
短い描写の中に「店長があきらから受けた影響の大きさ」が織り交ぜられていて、少ないエピソードの中にぎゅぎゅっと情報量が詰め込まれていたと思います。
追加されたラストシーンの意図
上映時間の関係もあるのでしょう。
原作では夏から冬に掛けて描かれてきた物語が、僅か1ヶ月の間の物語に圧縮されていました。
この変更は、下手すると不興を買いかねない点です。
あきらの店長への恋が「一時の心の迷い」と思われてしまうからです。
この作品はラブストーリーではありませんが、あきらの恋が本物として表現することはテーマ的に大事です。
その為、本物では無いのではと疑われるのは拙いのです。
「本物の恋」を演出するのに、時間は重要なファクターなり得ます。
「ひと夏の恋」などの代表されるように、知恵熱の如く瞬間的に湧き上がる恋だってあります。
ボルテージが上がるのも早ければ、冷めるのも早い。
簡単に失っちゃう恋であり、また、「勘違い」とか「偽物だった」と表現される恋です。
少なくともフィクションの中では、軽視されがちな気持ちです。
1ヶ月未満の出来事では、あきらの恋もこのように捉えられてしまう恐れがあります。
しかし、この問題を原作にはなかったラストシーンを追加する事で解消していました。
季節は巡って冬になっています。
あきらや店長らの服装を見れば、一目瞭然です。
河川敷で偶然にも再開した2人。
「お久しぶりです」という会話からは、あの夏から会ってなかった可能性が示唆されています。
もし「一時の恋」であれば、あきらは店長にどう接していたでしょう。
挨拶を交わし、近況を語り…。
それで終わっていてもおかしくありません。
「終わった気持ち」なのだから。
あきらは違ってました。
メールアドレスを訊ねます。
これからも関係を続けていきたいという気持ちが出ています。
相手は25歳も離れたオッサンなのです。
積極的に会いにでもいかない限り、滅多な事では関係が続かない相手。
実際半年近く会っていなかった。
口先だけの質問ではありませんね。
「恋をしていた頃」も同じことを訊ねています。
その時の気持ちが嘘でも無ければ、過去でも無いのでしょう。
「メールを教えてください」。
たった一言で彼女の恋が本物であったことを証明していました。
爽やかさもあって、テーマの補間でもある素晴らしいラストシーンでした。
終わりに
GYAOで西田ユイ、吉澤タカシを主役に据えたスピンオフ「恋は雨上がりのように ポケットの中の願いごと」全4話が無料公開されています。
原作のユイの物語をベースにオリジナルが混ぜられたお話になっています。
映画鑑賞の前でも後でも問題無く見れますので、良かったら見てみて下さい。
https://gyao.yahoo.co.jp/p/02000/v00062/
アニメも映画もクオリティ高くて、この作品は大変恵まれてますね。
全てテーマを共通にしながらも、ラストが違っているのでそれぞれで違った味わいを楽しめます。
映画の終わり方もこれはこれで爽やかで心地良くて、全体の印象をグッと高めてくれました。
物語の本歌取りをしっかりとし、丁寧に纏められた脚本が好印象な映画でありました。