禁じ手を使った「劇場版 名探偵コナン ベイカー街の亡霊」の面白さ

この記事は

「劇場版 名探偵コナン ベイカー街の亡霊」の記事です。
ネタバレありますのでご注意下さいませ。

はじめに

「劇場版コナン」は3人の監督が務めて来てます。

現在は3代目の静野監督。
2011年公開の第15作「沈黙の15分」より総監督に山本監督を置き、就任。
17作の「絶海の探偵」より独立しています。(但し、17作目は監修として引き続き山本監督も携わってます)
特長はやはりアクションでしょうか。
静野監督になってから全体的に派手になりました。
19作中14作で脚本を務めた古内さんが「何でも無いシーンでも静野監督にかかると派手になる」と漏らしてたりと、最早客のイメージではなく、実際にアクションが派手になりましたとスタッフ内でも認められているということですね。
まあ、ラジオで静野監督自身が派手だと認められてましたがw
その分推理シーンが薄くなったと言われてますけれど、個人的にはそうは思っておりません。
アクションばかりに目が行ってるだけなんじゃないかな。
推理シーンにどかっと尺を取ったり、台詞に伏線を入れる事よりも、映像面に伏線を張ってる印象が強いです。
世間的にはこのアクション多めの「コナン」がウケているのか、3年連続で興行収入の自己レコードを更新と言う偉業を達成。
僕も静野監督の「コナン」は好きですね。

2代目は山本監督。
長年TVシリーズで監督を務めて、2004年の第8作「銀翼の奇術師」で劇場版の監督に就任。
ネットとかしてると、どうも山本監督って悪く言われてますが、日常演出は突出してる気がします。
諏訪プロデューサーも「リアリティの追求と感情表現のバランスが良い」と評していますけれど、落ち着いた雰囲気のまさに「推理アニメ」の演出家としては相応しい方かなと。
個人的にですが、大人しい作風の「戦慄の楽譜」とか推理要素が高い(と思ってる)「水平線上の陰謀」とか好き。
山本監督だからこその映画だったと感じます。
「動の静野」とは正反対の「静の山本」というイメージ。

そして初代がこだま監督。
TVシリーズ初代監督にして、劇場版7作「迷宮の十字路」までを担当。
今思えばこだま監督のバランス感覚が「コナン」という作品にフィットしたんでしょうね。
古内さんの脚本を推理面でも補強し、ラブコメを尊重し、アクションもしっかりと組み込む。
「劇場版コナン」に求められている要素全てを良い感じに調和してる。

そんなこだま監督期の中でも「ベイカー街の亡霊」の凄さと言ったら、もう…。
やっと本題ですが、「ベイカー街の亡霊」について。
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良い所あれこれ

良い所っていうと、本当にいっぱいあります。
なんといってもシナリオ。

今作には3人の犯人が登場します。
1人は人工頭脳であるノアズ・アーク。
2人目はジャック・ザ・リッパー。ゲーム世界の敵キャラ。
3人目はトマス・シンドラーで、現実で殺人を犯します。

この3人の動機を血というものを大きくクローズアップすることで巧みに絡ませているんですよね。

殺人鬼の血脈を殺人事件サイドで採用。
仮想現実世界の動機(切り裂きジャック)も現実世界の動機(トマス)も、この血に関係させる事で「ゲームが解ければ現実世界の殺人事件の犯人も浮かび上がる」という構造を作ることに成功。
ここに世襲制という連綿とした血の流れを大きく絡ませている。
世襲制を否定し、「日本と言う国をリセットする」を豪語するノアズ・アークは、有力者の子供達を人質に取ります。

血が犯罪の温床になっているという作り。

これだけでもテーマとしては非常に分厚いものがあるんですが、犯罪を解決に導いたり、人を正したりしたのもまた血の力というところが面白くて。
コナンと優作という親子に事件を解決させることで、単純な「血の否定」だけでは終わらないメッセージ性が込められていました。

シリーズで初めて倒叙形式だったのも、この重厚なドラマに一役買っていたのかなと。
トマス・シンドラーは、最初から犯人だと観客に提示した上でドラマが進行。
だから、謎解きの焦点が「犯人は誰か」に向かわないんです。
これが良い。
何故って、「容疑者の容疑者然とした言動」をカット出来るから。
犯人探しになると、必ず複数の容疑者を出して、1人ずつそれとなく怪しく見せる必要があります。
ある程度の時間が必要なんです。
だけれど、犯人が最初から分かってるなら、そういうのは要らない。
余った時間は他に回せて、それがドラマ面の濃密さの一因になっていたんじゃないかな。

自殺してしまったヒロキと被害者の関係であったり、とことん血に拘ったシナリオが大変面白いものでした。

さて、推理面に目を転じますと、こちらも凄かった。
と言っても、実際メインの謎解きはとても簡単。
トマスがどうやって犯罪を行ったのかに絞られていたからです。
優作は、彼がどうやって殺人を行ったのか…凶器は何かを推理するんですが、とても簡単です。
凶器はすぐに分かります。

でも裏を返すと、それがまた凄い点とも言える。
優作の推理の過程が、それまでの映像に予め落とし込まれていて、容易に想像出来ちゃうんですよ。
刃物のような金属が会場内に持ち込めない事は、手荷物検査のシーンで絵で説明されていたり。
(作り物である)刃物を持った像を誰が会場に持ち込んだのかの説明と決定的な証拠が”出来上がる”瞬間のシーンにさりげなく優作を登場させて、彼が無理なく推理出来るようになっていたり。
ちゃんと見てれば、優作と同じ推理を出来るように作られているんです。
だから簡単。

切り裂きジャックは推理要素ほぼゼロだし、全体からすると推理は簡単だったのか…というと、それだけじゃ終わらない。
最後にどんでん返しが待ってます。
このどんでん返しの伏線も、映像にしっかりと落とし込まれているので、見返すとニヤニヤ出来ます。

アクションは派手になり過ぎず、けれど、しっかりと要所要所に仕込まれているんですよね。
トランプクラブでの格闘戦。
劇場爆破のシーン。
クライマックスの列車駅突入シーン。
中弛みを覚えそうなタイミングでアクションシーンがある。
これも良い点です。

どれもこれも凄い点ばかりなのですが、やはり最も凄かったのは、あの点ですね。

お約束を破る禁じ手

それまで5作を務められた古内さんから脚本家を変更。
初めて外部から招聘されたのが野沢尚さん。
マンネリ化を防ぐ為ということでの起用だったようですが、この起用が今作の評価が割れる一因になってるんでしょうね。

確かに過去5作とはガラッと変えてきましたから。
中でもキャラ崩壊してるという意見が多いかな。
一番はコナンが諦めてしまう点。
どんな窮地でも諦めないコナンが、一度は諦めてしまう。
これは違うでしょうと言う意見を多く目にしました。
この点についてもあとで持論を書くとして、ガラッと変えたことが何より凄いというか面白い。
お約束を破るんじゃないかというドキドキ感に支配された作品だったなと。

原作付き作品の最大のお約束事って何か。
原作のキャラクターの死を描けない事です。
ゲストは殺せるけれど、メインは殺せない。
そりゃそうですよね。
基本はそうなります。

今作では、このお約束の限界に挑んでます。

コクーンという仮想体感ゲーム機が出てくるんですが、コイツの何が凄いって「現行法では国外へ行けないコナンを海外で活躍させる」点じゃないんですよ。
一番は「”死なせられない”メインキャラの”死を描ける”」点。

コクーンって今でいうところの「ソード・アート・オンライン」のVRマシンです。
仮想現実世界に意識が飛ばされ、痛覚も触覚も共有しちゃうというもの。
脳を支配されるので、脳を破壊され、殺されちゃうという点も「SAO」らと同じ。

今作の”犯人”であるノアズ・アークはコクーンを支配し、ゲーム参加者の子供50人を人質に取ります。
その上で、全員がゲームオーバーになったら、脳を破壊して殺害すると予告。
この人質の中にコナンは勿論のこと、少年探偵団や蘭も含まれてしまったから、さぁ大変。

ゲームの中で死んじゃうと、最終的には本当に死んじゃうという状況が生まれます。

それでもメインキャラは死なないだろうと思って見てると、簡単にゲームオーバーになっていくんですよね。
光彦、歩美が先ずやられて、時間をおかず元太もアウト。
灰原も倒れ、遂には蘭も列車から飛び降りてしまう。

この時点ではゲームオーバーになっただけで、死んでしまった訳では無いんですが。
それでも彼らが1人、また1人と消えていくシーンは衝撃的です。

で、コナンが諦めるシーンに繋がる訳ですけれど。
これ別にキャラ崩壊でも何でも無いと考えます。
自然ですよ。
だって「守るべき対象」が皆”死んじゃった”のですから。

本当に死んだわけではないと分かってはいても、目の前で次々と居なくなられては。
それでも諦めずに前を向けたのは蘭が居たから。
その蘭も自分を庇って身投げした。

蘭を含めた3人で協力して助かる方法も、蘭が居なくなったことで使えなくなった。
最愛の人の”死”と唯一の助かる方法が使えなくなった事のダブルパンチ。
コナンと言えど自然なリアクションだったと思うのです。

新一の好きな言葉が蘭を突き動かしたという点で、視方を変えれば、コナンと蘭のラブコメ(コメディじゃないので、恋愛描写)描写にもなってるシーン。

仮想現実世界という裏技を使った、究極の緊迫感。
メインキャラが死んじゃうかもしれないという緊迫感が終始張りつめていて、これが今作の面白さの最大の要因になっていたと僕は感じたのです。
最終的にはどうせ全員助かるんでしょと思っちゃダメなんです。

子供達の死の描き方が凄く良い

子供が死ぬシーンって言うのは後味悪いです。
今作はいっぱい子供の死が描かれています。

ヒロキの自殺。
人質の子供達の死。

下手すると、とっても後味の悪い残酷な物語になっちゃう。
でも、そこは見せ方の勝利。
全然残酷にはなっておらず、子供にも安心して見せられるいつもの「コナン」なんです。

「人質になった子供たちの”死”の描き方」の見せ方が秀逸過ぎですね。
コクーンでは5つのステージが用意されていて、50人の子供達はそれぞれに分かれます。
で、コナン達のステージ以外の様子って一切描かれていません。
ほんの一瞬もです。
だから、殆どの子供達のゲームオーバーの瞬間が描かれていないので、彼らの悲愴感とか絶望感が一切無いんですよ。

これは大きいなと。
少しでも描いていたら、かなり残酷なモノに映っていたに違いありません。

じゃあ、コナンと同じステージの子達はどうかというと、これが物語と密接に関わっていて、本当に凄い。
コナン達に同行する4人の子供達。
4人とも有力者の2世で、揃いも揃って生意気ばかり。
ゲーム開始前には、彼らがどれだけ生意気な少年なのかが詳細に描かれています。
うっかりノアズ・アークに賛同しかけちゃうくらいな悪ガキ。

それがゲームを通じて少しずつ変わっていくんすよね。
他人を思い遣るような様子が全く感じられなかったのに、皆「他人を助けて」ゲームオーバーになっていく。
生意気だけなガキが、他人を思いやれる少年に変わった姿が、彼らが”死ぬ”事で描けている。
だからかな。
ゲームオーバーになっても悲愴感とか絶望感は無い。
寧ろ達成感みたいな喜びを以てゲームから離脱していく。
コナンがいればという信頼感もあったからなのでしょうね。

メインキャラ達も同様。
コナンさえ生き残っていれば大丈夫。
皆そういう顔で笑いながら”死んでいく”。
勿論仲間を助けた末に。
誰か(主にコナン)の身代わりとして、胸を張って。

残酷な様子なんて全く無くて、残るのは緊迫感のみ。

こういう子供達の変化が自殺したヒロキ君をも救っている。
脚本と演出、双方が「後味悪くならない様」しっかりと配慮し合ったからこそなのかもしれません。

終わりに

「コナン」で自殺ってタブー視されています。
でも、タブー視されているのは「犯人の自殺」であって、そうじゃないと自殺って普通に描かれています。
勿論過去の出来事としてならば、子供の死も描かれている。
ヒロキ君の自殺と言うショッキングな始まりは、それだけで異質なものに映りがちです。
しかし、十分「コナン」として許容出来る事だし、しっかりと彼が最後に救われるというフォローもある。

コナンが諦めるのだって、状況を考えればやむを得ないと解釈出来る。
海外が舞台なのも、「ルパコナ」の作られた今となっては特異点とは言えない。

唯一異質なのは、「”死なせられない”メインキャラの”死を描いた”」点に尽きる。
お約束を破る事で、シリーズ随意の緊迫感を生み出し、また、その死を重厚なドラマの一端にしっかりと絡めてもいる。

他人を助けるという慈愛は尊いものですが、自己犠牲は時に避難されることだってあります。
僕も自己犠牲を100%肯定したくない。
金田一はじめ君じゃないですが「共に助かる道」を模索するのが良いじゃない。
(カルネアデスの板と自己犠牲じゃ意味合いが変わりますけれど)
蘭たちの行為は、結果的に自己犠牲ぽくなってますが、決してそうじゃ無い。

光彦も歩美も元太も灰原も。
蘭だって「変わった」子供達だって。
最終的にコナンが助けてくれると信じたから、他人を助けて、死んでいった。

誰しもが共感出来るような死に方とでも云うのかな。
死んじゃうことに良いも悪いも無いと思うのですが、これ以上無い良い死なせ方。
ぞんざいに禁じ手を犯すのでは無くて、丁寧に扱われている点も見過ごせない良い所ですね。

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