はじめに
見てきましたが…。
申し訳ありませんが、映画の感想だけは素直に想った事を書くことを貫いてきてますので、そのまんま書かせてもらいます。
時間不足、説明不足。
詰め込み過ぎて、本当にやりたかったことがぼやけてしまっていた。
これが僕の感想です。
作品を面白いと感じ、その感情を共有したい方。
申し訳ございませんが、気分を害する可能性が高いです。
この先を読まれる場合、その旨ご了承下さい。
エンターティナーの悪い部分が出てしまった
真島先生って、根っからのエンターティナーだと思うのです。
人を楽しませる事を心から楽しまれる作家。
だから、良いと感じたアイディアはぼんぼん詰め込んじゃう。
マンガだとコントロールできる部分が、自分の手を離れ、劇場用アニメという「限られた時間」にぎゅうぎゅうに押し込んでしまい、結果ちぐはぐな映画になってしまったという印象です。
僕が何故酷評するに至ったのかを順を追って書いていきます。
テーマ
この映画で一番見せたかったのは「ナツがルーシィの目を通して、どう映っているのか」だと思います。
原作の最終章では、ナツの存在意義が問われてくるからです。
ナツは何者なのか。
ドラゴンなのか、人なのか、魔物なのか。
E・N・Dであるナツが仲間の目から見て、どう映っているのか。
どう想われているのかを改めてはっきりさせておくという目的があったはずです。
だから、最初のギャグシーンに見せかけた「オレは何に見えるんだ」というルーシィへの問い掛けはメッチャ重要。
ここでの「ナツに決まってるじゃない」というルーシィの答えが最後まで変わらないからこそ、テーマが浮き彫りになるんです。
ザッシュの魔法に掛かり、ルーシィに牙を剥くナツ。
クライマックスでは、半ドラゴン化した姿を見せる。
それでもルーシィはナツをナツとして見てくれるのか?
最後に同じ質問を繰り返してます。
「オレは何に見える」・「ナツに決まってるじゃない」。
この2つのシーンをしっかりと見せることが主目的であったはずなのに、色々な要素のせいでぼやけてしまったのが残念過ぎます。
チグハグ
初稿であるネームを読みました。
ポイントは、ガジルたちの任務ですね。
初稿では、少年のボディガードをしていた。
この少年が、実はザッシュが地下牢に閉じ込めていた姉の復讐をするというのが最後に描かれていました。
ガジルたちが出て来た意味。
ザッシュが地下牢に複数の女性を軟禁していた作劇上の意図。
ルーシィだけが地下牢に閉じ込められた意味。
全てが一本の線で繋がって、1つの物語として成立しています。
しかし決定稿、つまり、本編映画では、ガジルたちの任務が何だったのかが省かれてしまいました。
そのせいで、ガジルたちの居る意味も、ザッシュが地下牢に女性を軟禁していた意味も、ルーシィだけが捕えられた意味も無くなっちゃったんですよね。
上述のテーマを軸とした物語を構成する上で、不要な要素が生まれ、それをそのまま残してしまった。
ガジルたちの任務が何だったのかを削るのであれば、ガジルたちの出番そのものを削るべきです。
ザッシュの地下牢での悪趣味もカットです。(厳密には趣味じゃないけど)
当然ルーシィもザッシュに捕えられる必要性が無くなります。
もう1つ、クァルトゥム兵もそうですね。
初稿では、しっかりと倒す方法が考えられていて、FTメンバーが協力して倒す描写がありました。
本編では、何故かそこが削られ、結局、”何故クァルトゥム兵は倒れたのか”説明不足になっていました。
クァルトゥム兵自体も必要無かったですね。
そして、ナツが半分ドラゴン化した経緯も何故変えてしまったのか。
原作のナツのことを理解していれば、ドラゴンの魔力に触れた位では、ドラゴン化するはずが無いんです。
イマイチ、ナツが半ドラゴン状態になった理由も分からず…。
初稿のように、無理矢理身体を乗っ取られそうになったとした方が、納得出来ます。
初稿から中途半端に内容を省き、省いた分別の描写を足していた為、チグハグな印象が色濃く出てしまっていました。
まとめ
初稿をそのまんま映像化すべきだったと感じました。
正直、1作目の出来が良かったので期待していた分、落胆しました。