「義妹生活」第12巻感想 沙季の父は悪役だったのかキャラメイクの視座から考察する

この記事は

「義妹生活」第12巻の感想です。
ネタバレあります。

久々に感想を書いてみます。

あとがきで作者の三河先生が沙季の父・伊藤文也について「皆様はこの人物の事をどう思ったでしょうか?」と問いかけ、次のように語っていられます。

彼は悪役としてこの世に生を受けた存在ではなく、この世界でただ生きているだけの、ふつうの人です。

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そうして、沙季の成長について触れていらっしゃいました。

ここまでの物語で伊東文也が悪役であり続けたのは沙季がまだ未熟だったから。
伊東文也を悪役ではなく、ひとりの可哀想な人間として認識できたのは、沙季が本当の意味で大人になれたから。

三河 ごーすと. 義妹生活12【電子特典付き】 (MF文庫J) (p.254). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.

なるほどなぁと思った次第です。
ここを読んでみて、少し思ったことが出来たので、それについてブログを書こうと考えた次第。
「伊藤文也は悪役だったのか?悪役とはそもそもどういったキャラクターなのか?」
というテーマで書いてみます。

電子書籍特典 書き下ろし短編「思い出はモノクローム(茶色の!)」感想

その前に僕はkindleで読んでいますので、こちらを読めたわけですけれど、ちょっとこの短編について感想を記します。
紙の本を購読していて、読めてねぇぞという方もいらっしゃるので、ネタバレ余裕という方だけお読みいただければと思います。

この短編は、(当然と言えば当然ですけれど)12巻の内容とリンクしています。
本編ですれ違いを見せていた吉田と牧原。
吉田の悩みを悠太らが解き明かして見せた訳ですが、短編では牧原サイドのお話となっています。
と言っても同じ悩みではなくて、その悩みが解決した後の一幕。
「再び一緒に昼食を取ることになった2人は、それぞれ自作のお弁当を交換していて、吉田の作ったお弁当について女子陣が会話に花を咲かせる」。
あらすじを一言にすると、こんなところかしら。

この短編ね、そういった意図は無いのだろうけれど、僕には上述の「伊藤文也は悪役か?」のアンサーの1つにも思えたのです。

手作り弁当のあるあるの1つに「持ってくる間に弁当箱の中身が左右一方に寄ってしまう」ことってありますよね。
作ってる時は綺麗に入れてあっても、どうしたって移動時の揺れ等が影響しちゃいます。
見た目が崩れるなんてことは良くあることです。

吉田の作った弁当も同様にように思われた。
ご飯の量が少なかったのか、弁当箱の片隅に寄っていた。

先にも書いたように「よくあること」だから、この話はここで終わってもおかしくなかったと思うのです。
普段お弁当を作り慣れてないだろうからというのも手伝っただろう。
「吉田のミス」として終わっていてもなんら不思議ではない状況。

けれど、真綾がいたから、ここで話は終わらなかった。
「(牧原)由香ちゃん、小食じゃん。だからわざとご飯の量を少なくしたんだよ」と。
男兄弟がいるからというのもあったんでしょうね。
「男の子だったら、何も考えずにぎっちりおコメ詰めてる」なんて考え、女子高生が中々持ちえないよ。

真綾の経験則からの考えというのも間違いなくあったのでしょうけれど、ここはやはり彼女の「人を見る目」が卓越していたからとするのがスマート。
よく観察し、相手の気持ちを推し量り、自分の気持ちを押し付けることをせずに、相手を尊重する。
普段真綾がそういったことを出来る子だからこその気づき。

そう感じたのです。
故に、「伊藤文也は悪役か?」のアンサーの1つであると僕は思いました。

「伊藤文也は悪役か?」

では、伊藤文也について考えてみます。
冒頭で三河先生のあとがきを引用しましたが、考察のスタートは、この引用部分からにさせていただきます。
再掲します。

ここまでの物語で伊東文也が悪役であり続けたのは沙季がまだ未熟だったから。
伊東文也を悪役ではなく、ひとりの可哀想な人間として認識できたのは、沙季が本当の意味で大人になれたから。

三河 ごーすと. 義妹生活12【電子特典付き】 (MF文庫J) (p.254). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.

三河先生は、沙季の成長について触れているわけですね。
この記述の少し前に「伊藤が悪人であるためには、沙季が子供である必要がある」とも書かれていることからも、沙季は此度の件を通して「子供から大人への成長を果たした」と見ることが出来そうです。
恐らく三河先生の中では、沙季はまだまだ「大人になりきってない」状態として描かれていると思われますが、「1つ大人になった」とは間違いなく言えそうです。

伊藤のことを「自分の事しか考えられない人間」という認識しか出来ていなかった沙季。
それを「価値観の1つであって、尊重しよう」と考え方を変えることが出来た。
こういった少しの変化を出来る人間と出来ない人間がいて、出来るようになった沙季は「成長した」としている。

であるなれば、成長した沙季からして「価値観を変えられない可哀そうな人間」であるところの伊藤は、「子供」と言えるのではなかろうか。
子供だと思えば、作中の言動等々は、なんだか許せる気がしませんか。
三河先生の言う「ふつうの人」に印象が近づくと思うのです。

悪人では無くて子供だった。
「相手の気持ちを汲めない」のも子供だから。

ほら、漫画やアニメの中の子供でも、他の子の気持ちを優先出来ると「大人びている」と表現されるじゃあないですか。
逆に「自分勝手な振る舞いしか出来ない」と子供扱いされる。
伊藤も同じなんですよ。
見た目やなんかは大人でも、中身が子供だから、総じて子供として描かれている。

そもそも、悪役というのは、どういったキャラクターを指すのでしょうか。
一括りに「こういうのが悪役だ」とするのは暴論になりますけれど、「当てはまることが多い気がする」程度の提示なら僕にも出来そうです。

キャラとしての「悪役」とは

持論ですが、悪役というのは、総じて「人の気持ちを汲めるキャラ」なんです。

どうすれば嫌がるか
何をすれば腹を立てるのか
痛みや苦しみを味わわせるにはどうすればよいのか

敵対相手(正義側のキャラ)の立場をしっかりと理解し、気持ちを推察し、状況を鑑みる。
そうして相手の気持ちを掴んだ上で、尚、相手を痛めつける言動をする。
だからこそ、敵対相手に多大な傷を残せるし、読者の嫌悪を煽ることも出来るのですよ。

実のところ創作物の中で、どんなキャラクターよりも他人の気持ちを汲むことが出来るのが悪役なのかもしれません。

だとすれば、やはり伊藤は悪役では無いんですよ。
どこまでも自分中心。

勿論自己中も過ぎれば、立派な悪役を張れます。
が、伊藤の場合は、別にそこも突き抜けている訳ではない常人の域です。

ふつうに何処にでもいる自分語り大好きな・相手の気持ちを汲めないオジサン。
それが伊藤という人物なのだと思うのです。

終わりに

美少女と温泉入りたい人生だった

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