この記事は
「ぎんぎつね」の考察記事です。
ネタバレありますのでご注意下さいませ。
はじめに
よく漫画賞の選考コメントで「台詞で説明しすぎ」という文言を見かけます。
「漫画なのだから台詞ばかりで状況を語らずに、もっと絵でも表現しましょうね」という意味なのでしょうけれど、イマイチピンと来ない。
普段「プロの漫画家の先生が描いた漫画」しか読まないからでしょうか。
「台詞で語り過ぎている漫画」って、どういう事なのか。
逆に「台詞に頼りきらず、絵で表現する」って、どういう事なのか。
この2点は、どこで線引きされているのか?
分からないと言いつつ、前者ならば1作品だけ思い当ります。
あくまでも個人的な見解なのですが「キン肉マンⅡ世」が、「台詞で語り過ぎている漫画」なんですよね。僕の中では。
万太郎達の戦いに関する描写が事細かに台詞になっている。
ここまで台詞として起こさなくても、絵で見れば分るよ?というところまで、説明しすぎの感がありました。
だからか、バトル漫画の割には台詞量が全体的にも多い作品に入ると思われます。
じゃあ、「キン肉マンⅡ世」は「台詞で説明しすぎ」の「ダメな漫画」なのかといえば、違うとハッキリと言えます。
何故かと言えば「超人プロレスの試合は、実況されているから」ですね。
ちょっとパーマを掛けたような髪型の吉貝アナが実況を担当し、タザハマやアデランスの中野さんが解説をしている。
彼らが万太郎やスグル達の試合を実況し、僕等はそれを「観戦している」という作品構造が成り立っている。
だからこそ、「キン肉マンⅡ世」はOKなんです。個人的には。
因みに同じ構造の「キン肉マン」には、こういう印象をちっとも持ってないのが自分でも不思議です。
「キン肉マンⅡ世」の方が、台詞量が多いというイメージを持っているからなのかもしれません。
話変わって、先日「ぎんぎつね」のコミックスを購入しました。
前から気になっていて、ネカフェで1巻だけ読んで気に入り。
此度のアニメ化を機に、じゃあ折角だから買ってみようとなり、今は3巻を読み終えたところです。
で、ですね。1、2巻を読んでる時に感じたんです。
「台詞に頼りきらず、絵で表現するとは、こういう事なのかもな〜」って。
なので、それについて書き残します。
前提となる境界線
「ぎんぎつね」を読んでいまして、1つ自分なりの境界線を確立できた気がします。
「台詞で語り過ぎている漫画」と「台詞に頼りきらず、絵で表現する漫画」の境界線です。
読んでいる僕らがどう思うかというのは、人によって変わってくる点ですよね。
明確な基準は作れないし、本来ならばこの状態が最も正しいと考えます。
基準、境界線なんて要らない。
けれど、敢えて基準を設けるのであれば、キャラの心情を推測する事で線引きできないかなと考えました。
台詞以外の点。つまりは絵から僕ら読者が得た情報は、同時にキャラも理解出来ているのかどうか。
僕等が絵から得た同等の情報をキャラも得られた場合は、「台詞で語り過ぎている漫画」。
キャラが理解できない可能性があれば「台詞に頼りきらず、絵で表現する漫画」。
勿論これを論ずる場合には、時々に応じて色々と考えるべき状況がいっぱいあるでしょうけれど、ざっくりとこんな感じで境界線を引けないかなと。
あくまで僕基準でしかありませんが、ここに着目してみました。
第2話「神使の役目と人の性」より
2点ありますので、先ずはこちら。
第2話からです。
粗筋で言えば、池上さんとまことが打ち解けあうお話ですね。
公園で英雄の銅像を見つけたまこと。銀太郎に「あの人知ってる?」と話を振ります。
銀太郎は答えをはぐらかしますが、どうやら知っているという様子。
これがフリですね。
お話は進み、銀太郎が1つ昔話を始めます。
仇討に出た許嫁の成功と無事を祈る1人の娘に纏わる話を。
で、このコマですね。
まことのバックに先程の英雄の銅像を描く事で、この銅像の男の話だと暗に示していますよね。
しかもご丁寧に、読者の目線が銅像に行くよう、まことにスクリーントーンを掛け、更には吹き出しを被せることで存在感を薄くしています。
このコマで魅せたいのは銅像なのだな〜と感覚的にも分かる様になってます。
確かに銀太郎は答えに近い事を口にしております。
「英雄」と言えば、話の流れから銅像の男になりますからね。
ただ、断言はしてません。
また、まことは察せていたでしょうか?
僕がまことの立場だったら、どうだったでしょう。
場合によっては、気づかなかったかもしれません。
銀太郎の話の焦点が「英雄は誰の事か」では無い上に、英雄なんて呼ばれている偉人はいくらでもいますから。
登場人物が察せていない可能性を残している時点で、「台詞で説明しすぎていない」内に入るんじゃないでしょうか。
僕はそう考えます。
第7話「あたたかい季節」より
1話から折に触れ語られている事があります。
まことの母である由子の死です。
以来まことの父・達夫は男手一人でまことを育てつつも、妻の生家である冴木稲荷神社を守ってきた。
ただ、6話までの達夫からは、妻の事をどう想っていたのかは分からないようになってたかな。
寧ろ6話冒頭での「そんなイイご縁があったらこっちからお願いしたいよ〜」という台詞からは「次の恋に目が行ってるのかな?」とも思えて来て…。
少なくとも達夫の心境は窺い知ることが出来ませんでした。
2点目のフリはこれです。
第7話は、悟とハルが冴木家に来るエピソードの後編に位置する回。
悟に怒鳴られ、居なくなってしまったハル。
ついハルを怒鳴ってしまった事や一緒にいたいのに居られないと嘘を吐いている自分自身に思い悩んでいる悟が、達夫に諭されるシーンです。
「まだ今は無理に離れなくてもいいんじゃないかなあ」
「一番好きな時に離れちゃうのはやっぱり すごくしんどいしねぇ…」
単純に凄く良い台詞です。
実感籠ってる。
この台詞のコマで、背景に薄らと1枚の写真が映り込んでいます。
ハッキリとは見えないですが、白い髪の眼鏡を掛けた男性と黒髪長髪の女性が仲睦まじく抱き合っている写真。
達夫と由子ですよね。
由子の生前に撮った写真で、達夫が妻を本当に愛していたんだという雰囲気がこのコマ全体から伝わってきました。
初めて達夫が由子を今でも想っていた事が感じ取れたコマです。
小道具1つ描く事で、こういった雰囲気を演出し、達夫の台詞に実感を込めている。
実感が籠っていた!!
次のコマの「今もお母さんの事は一番好きだけどー!」は無くても良いかなと思ったほどです。
ここでもキャラの心情について考えてみます。
達夫の台詞で自分の気持ちに正直になれた悟。
彼の心を揺さぶったのは、僕等読者と同じ理由でしょうか?
つまりは、写真の仲睦まじい様子から達夫の想いを感じ取り、彼の言葉に実感が籠っている事が伝わって、自分の気持ちに素直になれたのか?
きっと違いますよね。
悟からも件の写真立ては見えていた事でしょうけれど、あの時にその写真を見ていたとは限らない。
達夫の話を聞いている時です。
写真が達夫の真後ろにあったのなら兎も角、悟の位置からは斜め前方にあった。
悟の視界には写真は入らずに、達夫の顔だけ見ていたと解した方が自然な状態です。
悟は写真という小道具の力に頼らずに、達夫の声や表情の些細な変化に心を揺さぶられたんじゃないでしょうか。
僕等読者が感じる事の出来ないキャラクターの声や些細な表情の移ろいも、同じ漫画内のキャラ達は感じています。
声や表情には人間の感情がダイレクトに出ますよね。
優しく、包容力があり、なにより真剣に悟の事を迎え入れたいと思っている。
そんな達夫の気持ちが声等に出ていて、悟はそこに心揺さぶられた。
「冴木家(ここ)が君の「新しい家」になれるといいなあって思って」
この言葉から連想される気持ちが声に乗っていた。顔に表れた。
悟は知っていたから。冴木家の家族事情について。由子が亡くなっている事を。
自身も両親や祖父を亡くしていて、「一番好きな時に離れちゃうのはやっぱり すごくしんどい」のは理解している。
写真での夫婦の仲睦まじい姿なんて見なくたって、悟には達夫の「しんどい気持ち」は達夫の声や表情から理解出来た筈です。
そう解釈したい。
強引かもしれませんが、こう解釈すると悟は達夫の台詞だけで心揺さぶられた訳では無い事となり、従って「台詞で説明しすぎていない」内に入るとしました。
まとめ
誰が誰に好意を持っているのか。
今作で言えば日輪子が達夫に淡い好意を寄せている所とか。
このような感情表現では台詞に頼らずに絵だけで表現される事って多いですけれど、そうじゃない点では意識しない限り気付きにくい気がします。
上で挙げました第2話の該当シーンは感情表現では無く、けれど、非常に分かりやすく描かれていたので気付けましたけれど。
第2話も7話も一番見せたいと思われる小道具をそれぞれコマの中央に配置していたりしてますしね。
「台詞に頼りきらず、絵で表現する」というのは漫画では基本なんでしょうけれど、けれど、だからこそ気づきにくい点なのかも。
普段当たり前のように読み流しているシーンにも、当たり前に思える程自然に色々な演出テクニックが仕込まれているのでしょうね。
そう考えると、漫画ってやっぱり奥が深い物だなと改めて認識しちゃいます。
漫画を描く事って凄く頭を使い、色んなテクニックを駆使してるんでしょうね。漫画家って凄いな〜。