「封神演義」 一流の釣り師・太公望の釣果報告書

「太公望」は「釣り好きの人」を指す言葉でもある

最初に漫画版「封神演技」の「経緯」を自明の事ではありますが記しておきます。
原作は中国四大奇書に数えられている「封神演技」。(以下、「原作」と表記)
書かれたのは明代と言われているようです。

史実の商周易姓革命を舞台に、仙人や道士、妖怪が人界と仙界を二分して大戦争を繰り広げるスケールの大きい作品

ですね。
漫画でも史実が混ざっていますけれど、これは(当たり前の事かもですが)原作からの踏襲ですね。

で、この原作を下敷きにして(翻訳では無く)翻案されたのが安能務氏の「封神演技」。(以下「安能版」と表記)
藤崎先生の「封神演技」(以下「藤崎版」と呼称)は、この安能務氏の作品を原案としている事はクレジットされてもいる事実ですよね。
これもまた藤崎先生のオリジナル要素がふんだんに入り込んでいるようですけれども。

少し話は逸れますが、このクレジットってコミックスで言うと5巻から入るようになったんですよね。
考えてみれば連載初期は本誌でも安能氏のあの字も書かれて無かった気がします。
今手元にある4巻までは初版の為、重版以降どうなっているのかは不明ですけれども。

話を戻して。
今回は、そんな「封神演技」の主人公・太公望について考えてみます。
特に「藤崎版」の太公望についてです。

そこで、彼の原典についても触れておきますね。
太公望は、実在の人物とされている周の軍師・呂尚であることも、また有名です。
有名というか、「封神演技」を読んだことある人ならば、自然と辿り着く事実というか…。
(呂尚は一般的に太公望と呼ばれていますし、歴史好きならば「封神演技」を知らなくても知っている事なのかもですね)
「原作」はこの呂尚が活躍した時期をフィクションを絡めて描いているのですから、彼がモデルになっているのは「原作」からですね。

だから、先ずは呂尚について知る必要があるのかなと。
で、呂尚というと、日本人ならばどこかで一度は聞いた事があると思うんですが「釣り好きの人を太公望と呼ぶ」事がありますよね。

渭水(いすい)で釣りをしていて、周の文王に見いだされ、先君太公の望んでいた賢人だとして太公望とよばれたといわれる。

と辞典にも記されており、ここから転じて「釣りをする人」・「釣りの好きな人」を太公望と呼ぶようになったようです。

これは当時「WJ」で読んでいた時に初めて知った事なのですが、改めてこの視点で物語を見直してみたのです。
そうして気付いた事。
太公望の釣り師としての腕ですね。

釣り行為と太公望

よくネットで「人を騙して釣り上げる行為」を釣りと呼び、それを好んで行う人間を釣り師と称していますよね。
主に2ちゃんねる等のアングラ系で使われていて、そうではなくても慣用句としてもありますけれども…。
太公望は、こういった意味での「釣り」も良くしておりました。
騙し合いは、太公望の基本戦術でしたので。
色々な面で「釣り」行為を見せる太公望は、軍師としてでも披露していました。
第19部「牧野の戦い」での戦法です。

敵を前に、先ずはビビった振りをしつつ自軍(周軍)を敗走させる。
これを追ってきた殷軍の後ろを取る様に、森に隠れていた別動隊を動かす。
後方を取った所で、逃走の振りをやめて、真正面から迎え撃つ。
これで殷軍の周囲をぐるりと囲んで、数的優位を勝ち取る。

厳密には間違いかもですけれど、こういう戦法を「釣り野伏せ」と言うそうです。
敗走を装う点が「釣り」という事ですね。

こういった点からも太公望が釣り師と見えるように描かれている。
まあ、この辺は「原作」等も同じだったんじゃないかなと推察しております。
(僕は「藤崎版」しか知らなかったりします。)

釣りの「待ち」という行為から見る太公望

もう一つ別の観点から、釣果を見てみます。
「釣り」と言えば「魚釣り」。
太公望の趣味としても、力を蓄える際や長考する際に釣りを楽しんでいるシーンが散見されていました。
彼が道士になった頃から既に釣りで長考する癖があったらしく、魚が釣れないような針を付けるようになったのは普賢真人に「無為な殺生ダメ」と指摘されたからというエピソードもありました。

で、そんな魚釣りの基本は、待つ事だと思っています。
静かに静かに只管待ち続ける。
場所などによっては論外な考えかもですけれど、竿を垂れて、日がなボーっと魚が掛かるのを待つのが「釣り」の一面に於ける真実だと思うんですね。

これもまた、太公望の行動として反映されていたと考えます。
最も有名な”大物”は姫昌でしょうか。
いつものように、釣竿を垂れている太公望の下に、配下も従えず1人で現れた姫昌。
ここでの2人の
「釣れますか?」
「大物がかかったようだのう」
のシーンは、序盤の屈指の名シーンだと思うんですね。

これは上でも引用しました有名な逸話である

渭水(いすい)で釣りをしていて、周の文王に見いだされ、先君太公の望んでいた賢人だとして太公望とよばれたといわれる。

に由来したシーンですね。

太公望の壮大なる戦いの本番は、この出会いから始まったと言えるし、そういった重要なシーンに釣りを絡ませているのが憎いです。

これ以外にも後の主力となる仲間達との出会いも、「釣りに於ける待ちの姿勢」からの事なんですよね。
哪吒との出会いは釣りをしている時に。
雷震子は、寝ようとしている際に空飛ぶ雷震子を偶然目撃し。
楊戩も強引に解釈すれば、向こうからやって来てくれた。
こう文字に起こしてみると、無理矢理感が否めないなと自覚しつつ(汗
なんとなく、待っている事で向こうから来てくれた感があるのかなと。
「果報は寝て待て」では無いですが、静かに釣りでもする時のように待っている事で、仲間を得て来た。
…雷震子は主戦力では無いというツッコミは無しの方向でお願いします…。

とまあ、何はともあれ、序章で妲己にこてんぱんにされてから、味方集めに奔走していた頃は、太公望の基本姿勢は「待ち」にありました。
その後は、周の軍師として・崑崙山脈側の仙道の陣頭指揮者として活発に動き回っていましたけれども。

そんな太公望の待ちの姿勢で得て来た”モノ”として、最大のモノは何なのか…。
崑崙の道士達(仲間)?
姫昌率いる西岐?

間違ってはいないけれど、それ以上に大きかったのはやっぱり7つのスーパー宝貝(「ぱおぺえ」が一発変換出来た…。なん…だと…)を使える猛者でしょうか。

太公望が釣り上げた最大の大物

太公望は元々は伏羲という女媧の仲間の1人でした。
つまりは宇宙人であり、女媧が裏で操る地球の存亡を何回も何回も繰り返し悠久の時間見て来た超越者であり…。

伏羲(太公望)は、兎も角女媧を打倒したいという思いから、彼女を倒せる力を求めていた訳ですよね。
それこそ何もせずに、じっと。
釣りでもするかのように、ただただ待ち続けた。

若しかしたら最初の頃は、女媧を食い止めようともがいたのかも知れませんよね。
伏羲の人格の1つである太公望は、誰よりも犠牲を少なくするよう望む男でしたので。
しかしながら、圧倒的なまでの女媧には敵わずに、いつしか抵抗を止め、仲間を求めていたのかもしれません。

太公望の性格を考えれば、そう思った方が合点がいくのですが、まあ、描写されていない事なので横に置いときまして…。
何度も何度も地球の「誕生」と「滅亡」を見つつも、人間が力を付けるのを待ったのは事実。
そうやって本当に計り知れない時間待ち続けて、女媧を倒す事の出来る7つのスーパー宝貝を使える人間が現れるのを待っていた…と。

太公望が釣りを趣味(明確に趣味としているかは不明ですが)としているのは、この頃の記憶が微かに残っていたから…なのかもしれませんね。
静かに心を落ち着かせて、只管待つという行為そのものが、細胞レベルで覚えてしまったというか。

勿論こんなのただの妄想でしかないのですけれど、そう思わせてくれるほど、太公望の行動に一貫性というか…。
太公望=釣りというイメージが定着しているなと思う訳です。

僕は「原作」も「安能版」も恥ずかしながら読んだことがありません。
だからハッキリとしたことは言えないのですが、この伏羲やそれに纏わる一連の背景ドラマは、この「藤崎版」オリジナルだと思っております。
明代に成立した小説に、宇宙人が出てきたり、超高度文明がどうたら…というSF設定は…出てきてないと思うんですね。

この設定のお陰で、「歴史ファンタジー」だった「封神演技」が、いっきに「SF漫画」とも呼べるまで変わりましたしね。
正直この漫画内の時間軸が、現実の僕等から見て過去なのか未来なのかもわからなくなったというか。
(フィクションの時間軸を現実と照らし合わせることには、何の意味も無いんですけれども)

まあ、だから、伏羲がず〜〜〜〜〜っと待ち続けていたというのも「藤崎版」オリジナル部分だと思いますし、そもそも
「伏羲」=「太公望」+「王天君」=「王奕」
という設定も「原作」等には無いオリジナルでしょうし。

藤崎先生は、ここまで計算されていたのかどうかは分からないですが、太公望の釣り好きという面を一貫して描かれていらっしゃったんだなと感じたのです。

終わりに

終盤で王天君と一体化した時。
連載で読んでいて、正直結構不満でした(笑

王天君が本当に嫌な奴だと思っていたからです。
飛虎や天化等々、僕の好きだったキャラの死を演出しやがりやがったので。
この気持ちは今も然程変わってはいないんですけれど。

ただ、伏羲というキャラを考えるとさもありなんというか。

伏羲は作中では「幾度となく女媧が地球を滅ぼしてきた事」を黙認してきたのかという燃燈の問いに対し
「正義である必要は無い」
と返し、まるで人間の生き死になど興味が無いような態度を取っているように見えます。

実際その通りだったんだと思うんです。
所詮は他の惑星のちっぽけな(自分よりも遥かに短い期間しか生きる事の出来ない)生物ですしね。
そういう燃燈からしてみれば「正義に反する部分」は間違いなくあったでしょうし、そういう部分が王天君になった。

では、もう半分は何かと言えば、間違いなく「優しさ」ですよね。
先述したように「伏羲が女媧に単身挑んだ可能性」も有り得ます。
敵わないと知りながら、それでも挑んだ理由に「優しさ」=「人を・生物を守る為」というのが必ずしもあったとは言いませんけれども、そういう動機があったという可能性を排除する事もまた出来ないですから。

というよりも、そういう部分が無いと太公望は、ああいう性格にはなってないでしょうしね。
人間の人間たる部分…。
性格やら人格やらが”どこにあるのか”は、現代医学でも判明していない事ですけれど、少なくとも「藤崎版」では魂魄に宿っているという解釈を採用しているのでしょう。
魂魄だけの仙道が生前と変わらぬキャラクター性で登場しているのが何よりの証左です。
つまりは、伏羲の魂魄に「優しさ」があったからこそ、伏羲の魂魄の半分から生まれた太公望も優しかったと。

性格なんてものは後天的に形成される部分も多く、王天君の壊れた部分なんていうのは、まさしくそういった要因が強そうなのは確かなんですけれどね。
それでも、そういう事を排除して考えれば、太公望の優しさも王天君の冷血さも、元々の伏羲の性格なのかなと…。

なんか大きく本題から逸れた感がしないでもないですけれど…。
伏羲の頃から、太公望の釣り師としての才覚はあったんじゃないかと、今回改めて思いました。

王天君のキャラ性まで含めて、太公望というキャラには、終始一貫して筋が取っていたんですね。
これって当たり前の事なのかもですが、長期連載になるとなかなか難しいコトな気がします。
そんな難しそうな事を「釣り」を基軸にして作り上げられたのが太公望というキャラだったのかもしれません。


こういう名言をさらっと言えるところに痺れる。

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