原作者と作画担当者の相互作用 「カツラアキラ」の場合

漫画原作者になるには?

プロの漫画家になるには。
1つ。賞へ投稿する。
2つ。持ち込みをする。
3つ。アシスタント募集に応募する。
4つ。同人誌の出版やネットで公開してスカウトされる。
大まかにはこんな感じですか???
メジャーな方法はこれくらいかな。多分。

では、原作者になるには?
「週刊少年ジャンプ」では「ストキン炎(ネーム部門)」という原作者専門の漫画賞があります。
他誌でも同様の賞(部門)が設けられていますけれど、それ以外の道って思いつきません。
そもそも出版社への持ち込みって出来るのかしら?
同人誌とかネットで公開してスカウトというのはありそうですね。
うううん。分かりません。
なので調べてみました。
良い記事が見つかりました。

「漫画原作者になる5つの方法」 141字以上で述べよさん

基本的には漫画家と大差は無さそうですね。
要するには「能動的にアピールしまくれ」ということかな。

ここまでは、素人が原作者になるには…という疑問。
では、素人でないならば?
プロの脚本家が漫画原作者を手掛ける事もあります。
脚本家でなくても、芸能界で活躍されている方が原作を描かれてることありますよね。
寺門ジモンさんとか秋元康さんとか。

ただ最も多いケースはプロの漫画家が原作者に転身する道じゃないでしょうか。
プロの漫画家が原作者になるケースにクローズアップして「原作者と作画担当者の関係」について書いてみます。

何故漫画家が原作者になるのか?

最初に漫画家に求められる能力について簡単に考えます。
アニメ作りに当て嵌めてみますと、漫画家は「監督(演出家)」と「脚本家」と「キャラクターデザイン」、「総作画監督」の4つの役職を兼務しているというイメージです。

「脚本家」として、プロットを作る。
「監督」として、プロットからネームを起こす。
「キャラクターデザイン」として、キャラクターを生み出す。
「総作画監督」として、ネームにペン入れをする。
アシスタントさんが手伝う部分は、「作画スタッフ」や「背景スタッフ」に割り当ててみると、しっくりくるんです。

これを正しいと仮定して、では、何故漫画家が原作者になるのでしょう?という疑問。
答えは分かりませんが、思いつく限りの僕なりの回答を挙げてみます。

1つ目は、独り立ちできないと判断された場合。
「脚本家」や「監督」としての腕は確かだけれど、「総作画監督」としては修行が足りないかなという時に、このような判断が下されるのかなと。
判断を下すのは、その漫画家さん自身の場合もあるでしょうし、担当編集者の場合もあるのかなって。

2つ目は、プロデューサー的な役割を行う場合。
漫画家としてやっていく能力は十分ではあっても、”自分以外の絵”で作品を発表したい時。
敢えて原作者に回って、作画担当者に絵を描いてもらうという形ですね。

3つ目は、指名されて原作を担当することになった場合。
これは実際にあるお話。
例えば、石ノ森章太郎先生。
東映主導で進められていた「仮面ライダー」の企画に「キャラクターデザイン」として白羽の矢が立てられたのが石ノ森先生で、以降現在に続く全ての「仮面ライダー」シリーズの原作としてクレジットされております。

4つ目。やむを得ない事情から原作者になった場合。
多分なんですけれど「GetBackers-奪還屋-」の綾峰欄人先生がこのケースに当て嵌まるのではないかなと。
「鬼若と牛若 Edge of the World」が長期休載に入ってしまった理由が体調不良でした。
これは先生のブログで公表されています。
「GB」連載時からみたいですが、いよいよ本格的な療養が必要になったようです。

今は「マジェスティックプリンス」と「特区八犬士[code:T-8]」で原作を担当されています。
(前者は今でこそ「漫画構成」という肩書ですが、連載開始時から暫くは「原作」表記でした)
漫画を描ける体調までは快復されていないので、原作としてお仕事を再開されているのだと解釈しています。

僕が思いつくのは以上です。

さて、逆の場合はどうなんでしょう。
つまり「何故、漫画家が作画担当者になるのか?」です。
作画担当者というのは、基本的にお話を考えず作画のみに集中している方達。
といっても、色々。
本当にお話にノータッチの方もいれば、原作者と二人三脚で作っていく方もいる。

これは答えは1つだけかなと考えてます。

「総作画監督」としてはピカイチだけれど、「脚本家」としての腕がイマイチという場合ですね。
人によっては「監督」としての技量もまだまだな事もあるのかもしれません。
絵は上手いけれど、お話が面白くないな〜と読者や編集者に思われたり、自分でそう考えたりすると、作画専門として生きる道に進むのかなって。

3作品ほど実際の漫画を挙げて、どういうケースなのか個別に考えてみます。

大場つぐみ先生×小畑健先生

1作品目は「DEATH NOTE」。
原作は大場つぐみ先生。
作画は小畑健先生。

このケースを考えるには、何よりも大場先生が何者なのかを明確にする必要性があります。
という事で、ここではガモウひろし先生説を採用します。
というか「バクマン。」コミックスに収録されていたネームを見た限り、多分間違いないですしw

ガモウ先生ならば、「DEATH NOTE」を自分自身で作画をしなかった理由も想像が付くんです。
画風と作風が一致しないんですよね。
ガモウ先生の絵は、ギャグ漫画の絵です。
これは誰もが賛同して下さることと信じてます。
「デスノ」のようなシリアスなサスペンス向きの絵では無いんです。

だから、ガモウ先生は原作に回ったのかなと。
先生が漫画家としてやっていく能力が十分であることは「とっても!ラッキーマン」で証明されています。
先に書きました持論の1つである「漫画家としてやっていく能力は十分ではあっても、”自分以外の絵”で作品を発表したい時。」というのは、このケースに当てはまるのではないでしょうか。

ちなみにギャグ漫画家がシリアスな作品を描けないとは思っていません。
つの丸先生が良い例ですよね。
「どう見てもギャグ漫画の絵」なのに、シリアスなお話も違和感無く描かれていますから。

金成陽三郎先生

2作品目は「金田一少年の事件簿」。
原作は金成陽三郎先生。
作画はさとうふみや先生。
金成先生は漫画家ではありませんが、他に思い付かなかったので挙げさせてもらいます(汗

ファン以外には知られていない話なのかもしれませんが、この漫画の立ち上げを行ったのは、当時「週刊少年マガジン」の編集者だった樹林さんです。
樹林さんが企画し、原作者として金成先生が選ばれたという流れなので「指名されて原作を担当することになった場合」に当て嵌まります。
そんな訳で、キバヤシさんが「魔術列車殺人事件」から「天樹征丸」名義で原案としてクレジットされたのも自然の流れなんですよね。
寧ろ遅い位。

鳥山先生×桂正和先生=???

この間、鳥山明先生と桂正和先生の合作である「カツラアキラ」が発売されました。
鳥山先生が原作を担当し、桂先生が作画担当です。

収録されているのは、2作品。
「ジャンプSQ.」に掲載された「さちえちゃんグー!!」と「ヤングジャンプ」に掲載された「ジヤ」です。

もう最高でした。
天才同士の仲良しコンビが組んだ漫画です。
面白いに決まってます。

んで、思った訳です。
この作品の場合、原作と作画両者の関係はどうなってるんだろうって。
漫画家が原作者と作画担当者に分かれる場合って、互いの「足りない部分」を補うケースが多いように思われます。
でも、この場合は何が補われているんだろうかと。

鳥山先生。
個人的には、「史上最も絵の上手い漫画家」という認識です。
物語は多くの作品を読めば読むほどクセが分かるようになり、先読みとかも出来るんですけれど、それでも引き込まれてしまう魅力に溢れてます。
「脚本家」・「監督」・「キャラクターデザイン」・「総作画監督」、どれも一流。
間違いなく天才です。

桂先生。
恋愛漫画、ギャグ漫画、シリアスから本格バトル。
何を描いてもトップクラスに立てちゃう、紛れもない天才。
僕にとっては初めて「美少女」というものを教えて貰った方です。
桂先生の描く少女は可愛いです。

共に絵も話も作れる大作家。
無敵じゃないかとw
足りてないところが無いんですけれど、巻末のインタビューを読んでちょっと納得。
そういえば「DRAGON BALL」以降の鳥山先生ってあまり漫画を描く意志が無かったって。
「原作だけなら」という事で、桂先生と組むことになったみたいですね。

これを念頭に置きつつ、「ジヤ」を読んでみると非常に面白いんです。
先日「ドラゴンボール改」のブウ編開始に際して、鳥山先生が「もうバトル漫画は描きたくないし、描けない」とコメントされていました。
原文はこんな感じ。

血圧高めで薄味好きのオジサンになってしまった今では、もうこんな闘いは描けません。
というか、これ以降、闘いの漫画を描く気がしなくなってしまいました。

実際「DB」以降バトル漫画って描かれてません。
一番バトル漫画に近かったのは「カジカ」ですけれど、あれもアクション漫画に分類した方が適当でした。
本格的なバトル漫画は描かれていません。

「ジヤ」って、鳥山先生にとって久々のバトル漫画と言えると思うんです。
気功波みたいなのをバンバン撃ち合って、空中での肉弾戦を披露している。

原作という立場だからこそ可能となった漫画なんですよ!!
多分。

「足りないところ」というと語弊があるかもしれませんけれど、この夢のコラボも足りない部分を補っていたのかもしれません。

今後の希望

足りてないところ。強いて挙げるならば鳥山漫画の恋愛表現かな。
ご本人が仰っていますけれど「恋愛は気恥ずかしくて出来ない」そうです。
「そういうのは桂君に任せてる」ともその時は語ってました。
「カツラアキラ」巻末のインタビューでも

できるだけドラマチックにしたくない。
途中のくだらないやりとりが好きで、背負っているものとかちょっとでもジメッとしたものは入れたくないんだよなぁ。

と述べています。
「さちえちゃんグー!!」がそうだったとインタビューでは語られていました。

感動的なプロットがネームになると、薄く演出されていたそうで。
完全なネタバレになる為具体的な記述は避けますが、「感動を煽るオチ」を大きく描くか小さくするかで議論。
話の流れからして、それじゃダメだろうと桂先生が主張して、現在の形(大ゴマ)になったとか。
このインタビュー読んでも、絵が想像できるんですよね。
確かに鳥山先生なら、さらっと小さいコマで流しそうですw
こういう鳥山先生の漫画では見られない演出もコラボの魅力だし、プライベートでも仲の良い桂先生だからこそ。
鳥山先生自身も仰ってますけれど、やっぱり並の作家では恐れ多くて縮こまっちゃうんじゃないかな。
自分の意見を押し通すどころか、出す事も出来るかどうか。
それではコラボの意味が無いですよね。
桂先生だったから、いつもの鳥山漫画とは違うテイストの鳥山漫画になったんだと思います!!

で、次回作。
今度は原作を桂先生。作画を鳥山先生にして一度でいいから描いて欲しいです。
漫画を描きたくない鳥山先生の趣旨に反する事ですけれど、一度だけ。

で、テーマは恋愛。
桂先生の得意とするちょっとエッチで甘酸っぱい恋愛劇を鳥山先生の作風で料理する。
一体どんな作品になるのか。
非常に興味があります。

なんにせよ天才同士の合作をもっと読みたいものです。

カツラアキラ (桂正和×鳥山明 共作短編集) (ジャンプコミックス)

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