「ラブライブ! The School Idol Movie」 感想

この記事は

「ラブライブ! The School Idol Movie」の感想記事です。
ネタバレありますのでご注意下さいませ。

はじめに

朝9時からの初回で鑑賞して参りました。
ということで本編感想です。
一言で言えば「これまでのアニメ『ラブライブ!』の集大成にして、個人的にはベスト」でした。

にこに語らせることの意味

最初に自分の記事を紹介するような形になって申し訳ないのですが、過去にこのような感想を持っておりました。
アイドルアニメの第3話 共通点とそれぞれのアイドル像の考察 – アニメな日々、漫画な月日
要約しますと、

学院存続の為に立ち上がり、結成されたμ’sの気持ちが体育館でのファーストライブに込められていた

というもの。
ただ単にアイドル活動をしている訳では無い。
アイドルになりたい訳では無い。
スクールアイドルなんだ。

第1期第3話で感じたことが、徹底して貫かれていたストーリーだったので、とても納得いくものでした。
そして、この立ち位置への拘りに、主人公の穂乃果ではなく、にこを持ってきてたところに説得力がありますよね。

にこは、アイドル研究部の部長であり、μ’sの中で誰よりもアイドルへの拘りと強い願望を持っている少女。
μ’sが普通のアイドルとして存続するか、スクールアイドルであることを貫いて活動を終えるかの岐路に立った時、まっさきにアイドルとして続けていく道を取っても不思議ではない子だと思います。
彼女のアイドルへの羨望が本物だからこそ。
アイドルになれる、その最大のチャンスが巡ってきたのですから、動くのが道理。

でも違っていました。
誰よりも先ににこがその道を反対していた。

アイドルに最も憧れているにこに、その道は有り得ないと言わせる事こそ、彼女達がスクールアイドルでありたい・そうであったと宣言しているものと解釈出来る。
抜群の説得力がありました。
作品として初志貫徹していた姿勢は、素直に良かったな思えたのです。

じゃあ、すぐさま答えを出せなかった穂乃果は、自らをスクールアイドルではないと思っていたのかと言うとそうではなく。
穂乃果が単純に割り切れない要素をしっかりと含まれていたので、彼女の悩みにも共感出来たんです。

スクールアイドルを大事にした物語

正直に言えば、なんで突然アメリカ?と戸惑いもしましたw
けれど、振り返ってみれば、これが色々な意味で大きかった。
僕が考える意味は3つ。

1つは、作中でのμ’sに知名度と人気を与える事。
とても重要な要素。
「μ’sを続けさせないといけないのだろうか」という外部要因作りですね。

余談ですが、これによって出来たファン層が、皆女子中高校生というところが、なんとも今作らしい。
制服だけでは年齢まで判断できませんけれど、制服を着てるという事は一般的に考えても中学生か高校生。
しかも女子だけ。
現実的に考えれば有り得ないですが、こんな部分にもしっかりと「スクールアイドル」としてμ’sを描きたいんだという意識が見え隠れしてますね。

2つ目は、穂乃果に9人での活動に未練を残す為。
一度TVシリーズ2期で決心したとはいえ、やっぱり9人でいる事は楽しい。
異国の地であっても、それは揺るがなかった。
描写的には、この点を強調されるシーンは無かったように記憶してますし、若しかしたら僕が勝手にそう捉えてしまっただけかもしれない。
けれど、これも穂乃果の悩みを強ませる一因になっていたと感じます。

3つ目は、穂乃果の悩みの解決に道標を付ける為。
ここなんか良くある作劇とは思いつつ、上手いな〜と感じたのですけれど、穂乃果が知らない土地で迷子になりますよね。
彼女が1人迷うまでのシチュエーションは、外国を舞台にしてるので、非常に自然に描写されてます。

道に迷った中で出会った1人の女性シンガー。
歌声聞いて、
どこかで聞いたことある声だな
  ↓
まさか、コナン君!?
  ↓
いやいや、まさか…ね。
  ↓
コナンくーーーーーーーーーーーーん(驚
という阿呆みたいな僕の驚きは置いておいて、穂乃果はバーロー声のお姉さんと出会います。

この女性の「暈し方」がまた絶妙。
エンドクレジットでも名前が明かされてなかったり、海未が認識してなかったり、知らぬ間に居なくなっていたりとどこか「本当に存在してるの?」と思わせる描写の数々。
しかも、意図してか否か、瞳の色といい、髪色といい、どこか「穂乃果を大人にしたかのような」外見。
穂乃果の幼少時を知っているかのような台詞も相まって、SF的な匂いさえ漂う。

それでいて、彼女が確かに存在していたとも取れるいくつかの描写。
残されたギター。
アメリカでの路上ライブで拍手を送っていた現地の人達。
アキバで穂乃果と再会したのも、あの時点でのμ’sの知名度を考えれば、偶然では無く必然とも取れる。

普通の人間なのかもしれないし、若しかしたら、穂乃果が生み出した穂乃果の分身のような存在なのかもしれない。
それこそ観客の判断に委ねられている存在なんですが、こういう「穂乃果の分身かもしれない」キャラに道標を付けさせる役目を与えているところが良かったですね。
はっきりと無関係と分かるぽっと出のキャラには出せない説得力とでもいうのかな。

道に迷ってる時に教えられた助言が、将来という道に迷っている時の解決への後押しとなる。
展開としては王道とも呼べるものですが、作品への落とし込み方が好きでした。

さて、少し視点を変えます。
この作品の描写の仕方には歪な点があると感じます。

μ’sと国立音ノ木坂学院が中心に”居過ぎる”んです。
噛み砕けば、あまりにも大人の人物が出て来なさ過ぎるんです。

モブを除けば、今作で出てくる大人は、μ’sメンバーの親くらいでしょうか。
ラブライブ!企画運営スタッフは勿論、アメリカでのTVクルーすら映って来ない。
映画にも出演してましたけれど、高森リポーター(名前知らないので中の人名義で)くらいかな。
思い出せるのは。
全く出て来ない訳では無いけれど、不自然なほど除外されてるんですよね。

僕としては、これも上で書いた「ファンが女子学生ばかり」と同じ理屈なんじゃないかと考えています。
非常に狭いんですよ。
世界観が。
アキバとかアメリカとか出て、そこらでライブをしたりしますが、あくまでも音ノ木坂学院が舞台。
音ノ木坂をメインにした学校が舞台とした方がより適切なのかもしれませんね。
そんな学院に通う女子生徒達が主役なんですよね。

女子生徒が自らの意志で、自らの力で活動を続けている。

これを見せるのが大事で、だから、「余計な大人の力」は出さない。
女性シンガーの”暈し方”もここに繋がってくる。
「穂乃果の分身」のような存在とはっきりと示してしまうと、それは作品の世界観に背きます。
SF要素は皆無ですからね。あまりにも異物過ぎます。
かといって、完全なる赤の他人の大人とすると、それも違う。
大人の助力で悩みを解決したというよりも、穂乃果自身で悩みにケリを着けたとした方が、作品としてしっくりくるから。

女性シンガーの存在を敢えて曖昧にする事で、「穂乃果だけの力で悩みに答えを出した」と少しでも観客に思わせていたのではないかと感じましたし、そういう風に捉えました。

舞台を作るのも。
演じるのも。
困難を乗り越えるのも。
応援するのも。

全部「私達」だけの力。

全国(?)のスクールアイドルを集め、自分達だけで次世代に繫げるライブを作り上げた。
穂乃果の悩みに共感でき、彼女の出した答えに納得する。

「ラブライブ!」という作品が、どのようなアイドルを描きたいのか。
どのような作品なのか。
非常に分かり易く、ぶれずに描かれておりました。

欲を言えば、アキバでの合同ライブでの曲をもっと「みんなで歌ってるんだ」感があったらなと。
エンドクレジットで見逃したのですが、μ’s中心というか、彼女達だけの声に聞こえてしまったので。
「合唱」的なアレンジがあれば‥。
そこだけ気になりました。

おわりに

「僕らのLIVE 君とのLIFE」のPVを彷彿とさせるような桜並木で羽ばたく穂乃果。
このシーンを見て、はじまりとおわりがしっかりと混在しているような錯覚に陥りました。

物語としても、作品のテーマがしっかりと出ていて、綺麗に完結している。
集大成として相応しく、映画的な壮大さもあった。

個人的にはシリーズ随一の1本でありました。

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