この記事は
「封神演技」の考察記事です。
ネタバレありますのでご注意下さいませ。
序
「封神演技」の記事、3つ目です。
一先ずはこれで終わりになります。
「キングダム」を読んで燃えて、同じ「中国歴史モノ」繋がりで、本棚から全巻ひっぱり出してきて再読した「封神演技」。
当時は全く気付かなかった点がありました。
第192回「歴史の道標 十八-女媧、大爆笑-」にて、およそ2000年前の伏羲(この時は王奕と名乗る)と元始天尊、燃燈道人の出会いが描かれています。
(以下、女媧(じょか)を「ジョカ」とカタカナで表記します)
この時、伏羲(王奕)は「デンキヒツジ」と大きく書かれたシャツを着ているんです。
画像は第195回の表紙です。
これは、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(フィリップ・K・ディック著)という1968年のアメリカのSF小説のパロディとなっています。
アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))
- 作者: フィリップ・K・ディック,カバーデザイン:土井宏明(ポジトロン),浅倉久志
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1977/03/01
- メディア: 文庫
- 購入: 70人 クリック: 769回
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この小説のタイトルは様々な作品でパロディのネタとして使われているらしく、まとめサイトも存在しております。
このサイトにも「封神演技」の上記のシーンが記載されていますね。
ただ、当時はこれがパロディだとは露にも思わずに、さらっと流していたんです。
キャラクターの着ている服にパロディが隠されているなんて、考えもしなかったですしw
んで。
今回はこのパロディがどういう意図で使われたのかを考えました。
すると、伏羲の思惑がそこに描かれていたんではないかという結論に達したのです。
もっといえば、「封神演義」という作品に藤崎先生が込めたテーマが集約されていたのではないかと思ったのです。
前提:パロディ元と今作の設定のお浚い
先ずは、パロディ元について知る必要があると考えました。
とはいえ、今回もまた僕はこの名著を未読。知らないのです。
なので、ググってみました。
wikipediaから概要を抜粋してみます。
第三次世界大戦後のサンフランシスコを舞台とし、賞金稼ぎのリック・デッカードが、火星から逃亡してきた8体の人造人間を「処理」するというあらすじ。
この世界では自然が壊滅的打撃を受けているために、生物は昆虫一匹と言えども法によって厳重に保護されている。
一方で科学技術が発達し、本物そっくりの機械仕掛けの生物が存在している。
そしてその技術により生み出された人造人間は感情も記憶も持ち、自分自身ですら自分が機械であることを認識できないほどのものすら存在している。
主人公リックは、他者への共感の度合いを測定するテスト(フォークト=カンプフ感情移入度測定法)によって人造人間を判別し、廃棄する賞金稼ぎである。
この世界での生物は無条件の保護を受ける一方で、逃亡した人造人間は発見即廃棄という扱いとなっており、主人公のような賞金稼ぎの生活の糧となっている。題名は、一見すると奇妙な問いかけである。
主人公は人造人間を処理していく中であまりに人間らしい人造人間に会いすぎ、次第に人間と人造人間の区別を付けられなくなってゆく。
人間とは何か?
人間と人工知能の違いは?
作品の根源的な思想を素朴な問いかけに集約した、主人公のこの一言が、そのまま本作品の題名となっている。
つまりは、
・戦争によって滅びた世界を舞台
とし、
・人間と区別のつかない人造人間が存在
し、
・人間は、人造人間かどうかを判別
しているという事ですね。
次に「藤崎版」の設定を箇条書きで纏めてみます。
・ジョカ、伏羲ら始まりの人は、高度な文明を築くも滅んでしまった星から来た宇宙人である
・故郷と同じように地球を作り変えようと提唱するジョカに反発した伏羲ら4人は、力を合わせてジョカを封印
・伏羲を除く3人の始まりの人は、ある者は哺乳類と・ある者は大地と一体化した。
・人間は、始まりの人の遺伝子を色濃く反映した種であり、中でも仙道はその力を受け継いだ人々である
・妖怪仙人もまた、始まりの人の力を強く受け継いだ鉱物・動植物
・そんな世界を拒むジョカは、魂魄の状態で地球を滅ぼし、自らの故郷と同じように作り変えようと画策
・ジョカの行為を予見していた伏羲は、封神計画を立案。仙道に協力を要請する
こんなところでしょうか。
これを元に「藤崎版・封神演技」の世界観と比較してみます。
提起:伏羲と燃燈らの初会合に込められた作品全体の本質
「藤崎版」は、ジョカによって何度も何度も作り変えられている世界です。
作っては滅ぼし、作っては滅ぼしという無限にも思えるサイクルを繰り返している世界。
戦後の荒廃した世界という訳では無いものの、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の世界観に似たモノを感じます。
そしてそんな世界に生きるのは、特別な力を持たない人間と特別な力を持つ仙道です。
両者に見た目や中身の区別は殆どありません。
違いと言えば、仙人骨を有しているかどうか位でしょうか。
妖怪仙人は、元は物や動物なので人間とは大きく異なりますが、人間に変化している時は、基本的には人間と区別がつけられない存在ですよね。
また、封神対象か否かで言えば、これは外見からの判断は全く出来なくなります。
その個人の能力によって封神対象有無が確定される為、仙道でも天然道士でも無い通常の人間でも、能力さえ高ければ封神されます。
これもまた「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」に於ける人間と人造人間の関係に似ております。
さて。
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」では、人間と人造人間をどう見分けているかですが、知恵袋の答えを引用させて頂きます。
その本のタイトルは、アンドロイドか人間かを見分ける際の「チューリングゲーム」のネタを指しています。
「さっき電気羊が歩いていたけど、君はみたかい?」と質問したら、人間なら「おいおいなんだそれ?大人のオモチャの新製品か」とか、「電気羊?放電する新種か?触ったら痺れそうだ!」とか、人間らしい反応をします。
ロボット的な人工知能で有れば、想像力豊かに発想を展開できず、最終的にはぎこちなく「電気羊という羊は現実に存在していない」とか、非常にデジタルな答えになってしまう。
この小説世界では、それを利用して人間かロボットかを見分ける際、この手の設問を繰り返し、その反応の凡例を重ねさせて判断するのです。
ここで、第192回の伏羲(王奕)と燃燈、元始天尊の問答に目を転じます。
必要な事なので、一部をちょっと文字に起こします。
以下伏羲を「王奕」と呼称します。また、句読点を僕の判断で加えていきます。
王奕「こんにちは。元始天尊、燃燈道人。待っていた…」
元始「おぬしは……?」
王奕「私の名は王奕。始祖の一人だ…」
(王奕による自分やジョカに纏わる説明タイム)
燃燈「歴史の道標 ジョカ……。そのような存在が……!!!」(元始天尊の台詞かもしれません)
王奕「私は万が一ジョカが復活した時のために一人残った最後の始祖。」
王奕「ジョカの身勝手をくい止めるために…」
王奕「だが私一人では力不足が見込まれる故、こうしておまえ達に協力を請うている」
燃燈「―待て!ジョカは何度も歴史を繰り返していると言ったな!?」
燃燈「なぜもっと早くジョカを倒さなかった!?」
王奕「今のジョカは肉体を封じられ魂魄だけで動くしかない」
王奕「その状態で力を酷使し続けたせいで、魂魄は消耗し弱ってきている」
王奕「それとは逆に何度も壊された地球の生命体は、打たれ強い方向へ進化し、たくましくなった」
王奕「そう………私はジョカが弱り、そなたらが強くなるのを待っていたのだ」
燃燈「―では、おまえは今まで地球が滅ぶのを黙認してきたと!?」
燃燈「それは正義と言えるのか!!!」
王奕「正義である必要などない」
王奕「そなたらに必要なのは選択する事」
王奕「ジョカの作る滅びの歴史を受け入れるか。それとも…」
元始「…わしはやるぞ。おぬしと手を組む!!!」
燃燈「元始!!!」
元始「それで王奕よ。わしらは具体的に何をすればいいのじゃ?」
最後の画像は、元始の最後の台詞の直後のコマです。
冷めた目で見つめる王奕(伏羲)の顔。
何故、こんな目をしているのでしょうか?
特に意味は無いのかもしれません。
ちょっと虚ろな表情をしただけなのかもしれない。
でも、話の流れから、この無言で見つめる表情に伏羲の心情が出ている気がしてならないのです。
だから考えました。このコマの・この表情は何を意味しているのか。
結果、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」での「人間と人造人間の見分け方」を切欠に、この一連の流れの中にこのパロディを盛り込んだ全てが集約されているのではないか。
そういう結論に至ったのです。
持論:封神される者とされない者を見分けるチューリングゲーム
先程の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の人造人間判別法に、このシーンを当て嵌めてみます。
すると、
王奕=質問者
燃燈=人間
元始=人造人間
という等号が成り立つ気がするのです。
燃燈道人の反応は、非常に人間味があります。
彼の正義感が一般的に正しいかどうかは考慮せずとも、「人の命を重んじて、王奕のしてきた事に対して激昂する事」は、「人間らしい反応」の1つであると思うんですよ。
ジョカを倒すという最終目的の前には、犠牲は無視するという機械的で冷徹な王奕の態度に対する反応としては。
何より「そんな奴は自分の正義感に背くので、倒さなければ」という気概は伝わって来ません。
寧ろ「何故、力を持ったお前(王奕)自身が斃してくれなかったのか」と問うています。
「お前たちの撒いた種は、お前たちで責任もって摘めよ」という風にも取れるかな…。
それに対して元始の反応はどうか?
僕としては、人間味を欠いた反応とは思いません。
元始は元始で、ジョカの存在や、彼女のしてきた事に深い憤りを覚え、だからこそ手段を問わずに滅ぼしたいという気持ちがあったと思われるから。
でも、この時の王奕には元始天尊のそれは「人間味を欠いた反応」に見えたのではないでしょうか。
なんていうか、「己の力を過信している」感を元始の台詞から感じてしまったんではないかなと。
始まりの人らが束になって、それでも封印しか出来なかったジョカ。
その封印も完璧では無く、魂魄だけとはいえ、自由な行動を許してしまっている。
そんな本当に途方もない相手に怯むでも、臆するでもなく、立ち向かおうとする元始天尊の姿勢は、勇気ある行為というよりも「己の力を過信した愚かな驕り」に見えたのではないか。
何の躊躇も無く「協力する」と決めちゃいましたからね。
こういった点に於いて「人間味に欠く」と判断したのかなと。
だからこそ、あの表情なんですよ、きっと。
ヒドイ落胆が、あの目に出ていたんではないでしょうか。
第193回で蓬莱島をも滅しかねないジョカの攻撃に対して、伏羲はこんな事を言ってます。
「よいのかジョカ…?あまりそれを使うとこの蓬莱島まで吹っ飛ぶぞ!?」
「そうなれば、おぬしの本体は遠い宇宙の深淵を漂う事となり…二度とは復活できぬであろうな」
「ただし、わしだけは空間移動で地球へ帰らせてもらうが」
「もちろん崑崙の仙道も消える事となるがそれは仕方あるまい」
「逆にそうしてくれた方が地球は平和となるであろうからな」
これは、ジョカの遠距離攻撃を止め、接近してきたところを罠に嵌める為の台詞だったのですが…。
が、これが本音では無いという確証も無いんですよね。
もしかしたら、これは偽らざる伏羲の本音なのかもしれません。
そもそも申公豹の推理では、始まりの人らは、自分達の強大な力を失くそうと考えていたという事になってました。
そんな「失くしたい力」を受け継いでしまった仙道やそれと同等の力を有する人間は、伏羲にとってはやはり「地球から消したい存在」なのでしょう。
封神計画自体も、彼らのような大きな力を封じる事(神格化する事)が目的の一つになってますし、辻褄は合いそうです。
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」に於ける人造人間を今作では、始まりの人の能力を高く受け継いだ者と解釈すると
封神対象の全人物=人造人間
となり、元始天尊は、そんな「人造人間」の代表者。
王奕にとって、この時の元始天尊は「排除すべき人造人間」に映ったかもしれませんね。
少なくとも燃燈は、元始天尊のこの行動に怒りを覚えた筈です。
2人の嘘喧嘩での
「元始天尊様 あなたは間違っておられる!!!あなたのしようとしている事は正義に悖ります!!!」
という燃燈の言葉は、本音だったと思えるから。
まあ、こう考えてみますと、伏羲にとって元始は「強大な力を過信し・振り回すジョカと同じ存在」に思えたのではないでしょうか。
しかし、ジョカを倒すためには、そんな元始ら「人造人間」が力を蓄えるのを待たなければならなかったのも事実。
伏羲にとっては、非常に複雑な心境だったのかもしれません。
何はともあれ、封神計画は、そんな元始天尊の驕りさえなければ、姿を変えていたのかもしれませんね。
純粋にジョカを倒すためだけの計画に…。
そんな気がするんです。
結語
結局最後まで元始天尊と燃燈の考えは平行線のままでした。
あくまでも自分達の力でジョカを倒そうと目論んだ元始。
封神台を解放するという裏技を用いてまで、仙道の力で倒そうとしていた。
逆に燃燈は、伏羲のフォローに徹しようとしていた気がします。
完全復活を遂げたジョカが広域破壊を始め、多くの村が焼失する様子を見かねた燃燈が
「このような事が許されてもいいのか!!!」
と王奕に激昂しますが、この言葉に全てが集約されているのかなと。
「ジョカを倒すのは、あくまでお前の責任だから、お前がやれ」みたいな。
強大な力を持って居ながら、それを全面に出していない点が燃燈道人からは感じます。
強大な力を過信した元始天尊という「人造人間」と力に驕らない燃燈道人という「人間」。
こういった対照の考えを持った2人ですが、封神対象という点に於いては等しい存在でもあります。
そんな「人間なのか、人造人間なのか判別が難しい存在」を伏羲に見せる事で、
人間とは何か?
力持つ者(封神対象の力ある者)とそうでは無い者(封神対象外の力の無い者・若しくは、力を過信しない者)の違いは何か?
という問いかけを行っている。
だから、この問いに対する藤崎先生の答えが、伏羲の取った最終的な行動になるのかもしれませんね。
伏羲の最初の答えは、上記画像の表情から推測される事であり、最終的な答えは、彼が仙道をどのような位置に置いたのかに集約されている。
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」に流れる根源的な思想を、この作品に込めたのかもしれないな〜と。
だからこそ、初登場時の王奕にパロディとしてネタを仕込んだのかなと考えたのです。
そういえば、王奕が最初にコンタクトを取ったと思われる太上老君。
彼の初登場時には、多くの羊が出て来てました。
羌族が遊牧民だから自然に見えた描写でしたけれど、実はこれもまた「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」のパロディだったのかもしれませんね。