強さの表現の仕方
バトル漫画。
(ここでは、格闘技をテーマとした漫画を除いた作品群を指す事とします。)
このジャンルには一つの課題が常に付き纏うと考えます。
所謂「パワーインフレ」という問題ですね。
倒せば倒すほど強くなっていく敵。
それに伴い味方側も当然のように強くなっていくわけで。
この無制限に続くスパイラルは、行きつくところまで行くと、作品を続けることすら難しくしてしまいます。
また、どのように強さを表現するのかも、作家さんの腕の見せ所なのでしょうね。
ただ単にセリフで強くなったことを描くだけでは芸が無いですし、説得力も無いですよね。
そこで、様々な方法を用いて「強くなった事」を描いていく事になります。
この記事では、パワーインフレを観点に幾つかのバトル漫画を振り返ってみようと思います。
「DRAGON BALL」
パワーインフレというと、やはりこの漫画を無視するわけにはいきません。
行きつくとこまで行った作品ですしね。
てなわけで、思い返してみますと、2つの大きな柱があった事に思い当りました。
「師匠」と「見た目」ですね。
物語自体もこの2つで大きく分けられると思っています。
先ずは一つ目。「師匠」。
これは大変分かりやすいです。
「師匠の師はもっと強い」という理屈ですねw
勿論そんな訳無いのですが、何故だか説得力はあります。
主人公の悟空は沢山の師匠との出会いを経て、力を付けていきました。
孫悟飯。悟空の育ての親ですね。
功夫の基礎をこの悟飯から学びました。
次は亀仙人。
悟飯の師匠であり、クリリンと共に学んだこの期間は、悟空を人間的にも大きく成長させてくれました。
3人目は猫仙人ことカリン様ですね。
かつて亀仙人に修行を付けていた事もあり、正式な意味での師弟関係ではありませんが、やはり繋がっていると思います。
続いて4人目となったのが神様とミスター・ポポ。
カリン様の上位の存在であり、地球上では最も偉い人ですね。
地球で一番上位の存在である神様に師事した事で、悟空の戦いは地球での規模を超える必要性が出ました。
ピッコロとの死闘の次が異星人となったのは必然的だったのかもしれません。
(ピッコロも異星人ですが、ピッコロとの戦いの最中はその設定は無かった可能性が高いw)
さて。地球で一番偉い人物からも教えを乞うた悟空は、更に偉い人から学ぶ必要性が出ました。
そうして出て来たのが、5人目の界王様。
神様を束ねる「神様にとっての神様」。それが界王様。
もう有り得ない程偉い人が出て来ました。
元気玉や界王拳等々、アニメの劇場版を中心に大活躍する悟空の必殺技が生まれた瞬間ですね。
特に元気玉は大きな存在となりましたが、それは後述。
こうしてベジータの襲撃を辛くも撃退した悟空は、その後界王星での経験を活かし、遂には自分一人での修行を開始。
フリーザとの戦いに臨むこととなります。
「師匠」を基盤にしたスパイラルは一先ずここで終わりました。
この先も界王様を束ねる存在の大界王(姿はアニメ版にのみ登場)、更にその上の界王神や老界王。
それらを束ねる大界王神(故人)など、何が何やら分からない程偉すぎる高位の存在が出てきたりしましたが、修行を付けてくれたわけでは無いので除外。
(老界王神の能力は修業とは言いたくないですw)
というか、敵が彼らの力を圧倒して居た為、強さの尺度には最早使えなくなってしまったのですよね。
そんな訳で、「師匠」との決別の意味も込めて、新たな尺度が出て来ます。
「見た目」です。
まぁ、ぶっちゃけると超サイヤ人の事ですが。
これは見た目から全然変化するので、なんか分かりやすいです。
髪をベタ塗りするのが面倒だったからという事で生まれた偶然の産物でしたが(笑)、金髪碧眼、金色のオーラという分かりやすい見た目の変化は、凄く強くなったように映りました。
先程物語が2つに大きく分けられると書きましたが、僕はフリーザ編で一つの大きな区切りが着いたと感じます。
「師匠」を強さを示すバロメーターとしていた悟空の物語は、彼自らが超サイヤ人になる事で終末を迎えたのではないかな。
悟飯の物語は、こうしてセル編から幕を上げた…と解釈も出来るのではないでしょうか。
という事で、悟飯がシリーズのボスキャラであるセルを倒す際、超サイヤ人は更なる進化を見せました。
超サイヤ人2ですね。
まぁ、これはあまり見た目の変化こそ少ないですが、この時は「サイヤ人と地球人の混血は、凄い潜在力を秘めている」とか「キレた悟飯は強い」という描写が伏線のように敷かれまくっていたので、説得力が生まれた…と見れそうです。
この後、魔人ブウ編に入ると超サイヤ人3が登場。
見た目が更にガラッと変わり「なんだか滅茶苦茶強そうだ」と思わせるには十分でした。
でも僕は魔人ブウ編は、この「見た目」の尺度をも否定した物語だったと思います。
超サイヤ人3状態の悟空やゴテンクスで、ブウに止めを刺せなかったからです。
悟空は時間切れ(と若い世代に道を譲りたかった為)、ゴテンクスは調子に乗りすぎた為ですね。
作品最終章ともなったブウ編は、これまでの強さのスパイラルにも終着点を刻んだ章だったのですよね。
ブウに止めを刺したのが、潜在能力を限界以上に引き出された悟飯でも無ければ、超サイヤ人3となった悟空でも無い。
地球人や異星人。
多くの人々の力を集結させた元気玉だったのが、その証左だと僕は考えます。
一度途絶えた「師匠」編の時の技で締めたというのも、なんだか感慨深いものがあります。
「1人では成し得ない事も、多くの人と協力すれば可能となる」
フュージョンやポタラでの合体なんかにも、そういう意図があったではないか。
そんなメッセージが…込められていた事は無さげですが、このような観点で見ると「DRAGON BALL」という作品にはそういうメッセージが込められていたと読み取りました。
今回は原作のみで考察してみました。
アニメにまで範囲を広げると、「師匠」には武泰斗が入ってくるのかもしれませんし、超サイヤ人4も考慮すべきなのかもですね。
色々と書いてきましたが、DBは力のスパイラルの描き方が巧みな作品であったと思うのです。
非現実的な力に納得出来るだけの説得力を持たせていて、最終的には一つの答えの様なものまで提示している。
スケール感を増すDBの戦闘ですが、こういう観方をしてみるとまた違った面白さが見出せそうな気がします。
ま、あくまでもDBが大好きな僕個人の勝手な解釈に過ぎませんが(笑
さて。予定よりも長くなりました。
続きは今度…書けると良いなw
一先ずここで終わります。最後まで読んで下さり、ありがとうございました。