はじめに
日本のティシュの消費量はアメリカの3倍だそうです。
ヤバくね。
日本、ヤバすぎじゃない。
どんだけティシュ使ってんだ。
それはさておき。
小説のTVアニメ化についての記事を。
1年以上昔に途中まで書いていた記事なので、取り上げてる作品が1年前のものになってますが、ご了承をば。
原作有りアニメと尺
2015年は原作付きアニメの尺についての「問題」(というと大仰ですけれど)に改めて想いを巡らせる1年でありました。
正解は無いのだけれど、尺が足かせとなっている場合はあるよな~と。
「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」。
「すべてがFになる THE PERFECT INSIDER」。
前者はラノベ、後者は推理小説であり、「ダンまち」の方は原作既読です。
この2作品を取り上げて書いていきます。
さて、この2作品のアニメ作品は原作に対するスタンスが大きく異なっていたと感じます。
先ずは「ダンまち」。
幼女神が可愛すぎる!!!!!!!!!!
閑話休題
多くの原作付きアニメと同様に、今作も「原作の複数のエピソードをアニメ化」するという構成を取られていました。
原作で言う所の第5巻までを映像化されていたのです。
この「ダンまち」ですが、僕には全体の構成にやや不満が残りました。
この手の感想は「原作を読んでいるからこそ」であり、そうでなければ…原作未読者にとっては感じる事があまり無いことでしょうけれど。
何故そう感じてしまったのか。原因はエピソード毎の話数です。
前半に多くの時間(話数)が費やされ、結果として後半原作に当たる4,5巻のエピソードが窮屈になっていたかなと。
以下に大雑把にですが、原作とアニメの話数の対応を記してみます。
原作巻数 | アニメ話数 |
---|---|
1巻 | 1話~3話 |
2巻 | 4話~6話 |
3巻 | 7話~8話 |
4巻 | 9話 |
5巻 | 10話~13話 |
4巻がたったの1話で終わっちゃったときはついTVに向かって「なんだってーーーー」と叫びました(笑
確かにヴェルフと出会って仲間になることさえ描ければ十分な巻ではあるんですけれどね。
後半に短編が2本入っていますし分量的にも既刊に比べ軽いこともありますし。
ただ、それよりも大きかったのが5巻に相当する部分。
原作では、物語として1つの節目となったエピソードであり、読み応えは群を抜くもの。
ベル達が絶対的な窮地に追い込まれ、カタルシスもバトルのスケールも今までにない程でした。
だからこそ、ここにもっと時間を割いて頂きたかったんです。
何をしても敵わない追いつめられた絶望感。
冒険者達が束になっても敵わない程の強さを誇るモンスターの恐怖感。
そういったものが”時間が無い”為に欠けていました。
結果、ベルの大逆転劇にもカタルシスがイマイチに感じたのです。
冒険者たちの悪戦苦闘ぶりに関する描写が削られ過ぎていたんですよね。
彼らは有象無象のモブなんかではなくて(いや、モブには違いないんだけれども)、しっかりとした「戦力」となる強者達なんだという情報が無い。
その為、
彼らが敵わない=それ程までに強く、やばい状況
というシチュエーション作りが不足していた。
この辺は確かに映像化の際に削ぎ落とせる部分ではあるのですが、クライマックス感を盛り上げるためにも必要でしたし、ここを描く為にももう少し時間が必要だったなと。
5巻は物語の節目であり、ここをアニメの最終エピソードに持ってくるには納得です。
ならばこそ、最も時間を費やして欲しかったんです。
物語前半やキャラクターデザインの素晴らしさもあり、総評としては「面白かった」のですけれども、後半の構成がやや影を落とす形になってしまったのは少々残念ではあります。
繰り返すようですが、あくまで「原作を既読だからこその感想」。
思いのほか長くなってしまいましたが、この真逆の感想を抱いたのが「すべてがFになる」です。
まさか、たった1エピソード…原作1巻を11話も使って映像化されるとは。
てっきりフジテレビでのドラマ版同様、原作の複数のエピソードを映像化するものとばかり思っていたので、これには驚かされました。
とはいえ、厳密には「原作1冊分を11話かけてアニメにした」訳では無く、主要キャストの1人である四季を主人公に据えた小説「四季シリーズ」4巻も原作とされていたようです。
僕は「四季シリーズ」こそ全くの未知の世界な為、どの程度映像化されたのかは分かりません。
分かりませんが、ドラマ版から想像するに四季のバックボーンとなるドラマパートの殆どがそうだったんじゃないかなと推測。
原作の1エピソードである「すべてがFになる」を補足し、「完全な形として再構成した」と評しても、そうそう外してはいないんじゃないかなと思うのですね。
…あまりにも見当違い過ぎて原作既読者に指差されて笑われるかもですがw
さて、ドラマ版しか知らない僕からして、アニメ版は非常にまだるっこしい展開でした。
あまりにも遅すぎるように感じたのです。
冗長過ぎるんじゃないかくらいの感想は持っていました。
あくまでも「原作を未読だからこその感想」であって、実際原作を読んでいたらどう感じていたのかは不明です。
僕の理想
小説は漫画に比べて1巻当たりの情報量が多いです。
いや、正しくは「情報量が多いと思い込んでいる」でしょうか。
台詞も多く、心理描写も深く切り込まれている事が特長です。
場面の状況なども全て文字での説明が必須である為、どうしても「読まないとならない情報量」が増えます。
漫画は、字(台詞やナレーション等)で説明するよりも、「絵で表現できることは絵で」が基本です。
情報の多くは絵として表現されていて、しっかりと読み込まない限りは多くの情報量を「読んだ気」程度で見逃し易いのですよね。
「キャラクターがどういった場所にいるのか」。
漫画だと背景として処理される情報です。
キャラクターばかりに目がいって、台詞を読んでいるだけでは入ってきにくい情報の類ですね。
小説の場合は、必要であれば事細かに文字で説明文が挿入されるでしょう。
当然、読者はその説明文にしっかりと目を通すことになります。
背景についての情報を確かに受け取れるのです。
何処を見ても文章しかないのが小説。
漫画のように「着目すべき点」がパッと見で判別出来ない為、全ての情報が平等に入ってきます。
故に、映像化する際に「削ぎ落とされる(ように感じる)情報量」は、漫画の比では無いと思っております。
だからか、全体的に物足りなさを覚えるのは最早宿命のような感じに捉えています。
例えば西尾維新先生の「物語シリーズ」なんかもそう。
「偽物語」は原作未読の僕としてはかなりの時間を費やしてじっくりと映像化していたように感じたのですが、原作既読者からするとあれでもまだまだ物足りないそうです。
文字通り省略されているシーンが多い場合は、「省略しすぎてる」という感想で間違いないですが、そうでは無い場合は「物足りない」。
台詞なのか感情表現なのか。あるいはどちらもなのか。
物足りないという感想を抱くという事は、キャラクター表現そのものが足りないということなのかなと。
さて。
「ダンまち」と「すべてがFになる」の話題に戻りましょう。
僕としては、どちらも不満が残ったのが事実です。
前者については尺が足りない。
後者は尺が有り余っている。
丁度良い分量では無かったと今でも思っており、その中間くらいが良かったのですね。
尺はもうどうにも出来ません。
近年では変則の話数のアニメも増えましたが、通常は12話、ないしは13話でしょう。
この尺に原作を無理矢理はめ込むと、どうしても同様の不満が出ます。
なので、「無理のないような原作」を当て嵌めて、あまった話数はオリジナルで消化させるというのが一番無難…というか個人的な理想です。
「ダンまち」で言えば3巻までをアニメ化。
原作1巻あたりを3~4話で消化。
余った分でオリジナルエピソードとする。
3巻はちょうどミノタウロスとの決戦です。
ベルがトラウマを克服し、「冒険者」に至る物語であり、切りとしても無難です。
これならば、僕は何の不満も抱かなかった事でしょう。
原作を1つでも多くアニメ化するということに拘らずに、じっくりと丹念に進めて頂きたいというのが僕の理想ですね。
終わりに
今年4月から「ソードオラトリア」が始まります。
一体どこまでアニメ化するのか…。
本編以上に難しそうなんですよね。
というのも、本編以上に「縦の繋がり」が濃いからです。
丁度良い切れ目が無いんですよ。
一体どうするのか…。
いっそ完全オリジナルにしてしまっても面白いのかもしれません。
原作ファンの一部は発狂するかもですが(汗
物語の構成に着目して、楽しみに待ちます。
あと、個人的に注目なのはティオナね。ティオナ。
妹の方。イラストの奥の方。
天真爛漫可愛い。
「いっくよーーー!!!」って台詞が可愛すぎて大好きなので、アニメでも大注目したいです。