この記事は
「四月は君の嘘」の記事です。
ネタバレありますのでご注意下さいませ。
はじめに
「四月は君の嘘」が完結いたしました。
第1話から「月マガ」での連載を追ってきた身として、最後に思いの丈を全てぶつけたいなと。
という事で、言いたい放題な記事です。
辛いよ〜、あんまりだよ〜
「月マガ」で第1話を読んで、心底惚れ込んだ僕は、以前のブログで1話から欠かさずに感想を認めていました。
面白いものに出会うと、ついつい、吹聴したくなるじゃないですか。
リアルでは、熱く語るとか苦手なので、その手段としてブログを活用していました。
楽しくて楽しくて仕方なかったんです。
このブログを始めた際も、毎月感想を書いていくものと疑わず、最初のエントリーでその旨を宣言しちゃってたりします。
が。
実際は話数毎の感想はゼロ。
コミックスの感想記事も僅か2回のみ。
たったこれだけで、今まで来てしまいました。
何故こうなったのか…。
本音を包み隠さずに言えば、トーンダウンしたからです。
僕の中で「四月は君の嘘」という作品に対する情熱がいっきに冷えてしまったんです。
毎回欠かさずに読んではいました。
決してつまらなくなった訳では無いんです。
「かをりの死」が作中でどんどん色濃く浮き上がって来て、拭い去れない程作品全体を覆っていったからです。
僕は漫画やアニメを「愉しむ為」に鑑賞しています。
ハッピーな気分になりたいんですよ。
漫画を読んだり、アニメを見ることで。
決して落ち込みたいからとか、凹みたい訳では無いんです。
ハッキリ言えば嫌いなんです。
キャラクターが死んじゃうお話は。
例えお話の中だけに存在する、架空のキャラクターであっても、彼らが死んじゃうとやっぱり凹むんですよ。
気分が滅入っちゃうんです。
リアルの方まで引きずる事もある位、苦手で嫌い。
だから、そういう方向…かをりが死んじゃうようなフラグをバンバン立てていて、本当に辛かった。
助からないんだろうなという振りをいくつも見せられ、外堀を埋められていき…。
されど、逆転ホームランの微かな可能性に掛けて、祈って、望みを捨てないで最後まで読んできました。
そんな僕のちっぽけな希望は、しかして露と消え、僕にとって最悪の結末を迎えた訳ですけれども。
もうね、本当ね。
手術は一体何だったんだろうってね。
少しでも長く生きたいからと決意をさせ、手術に臨ませたんですよ。
ここで奇蹟が起きて、手術が成功して延命。
かをりは助かりました、めでたしめでたしっていうのが、物語のどんでん返しになるじゃないですか。
なってもいいじゃないですか。
そういう落とし所に持って行けるフリに充分なり得る「手術」を描いておきながら、あっさりと”殺しちゃう”。
いくらなんでもあんまりだな〜って思わずにはいられないんです。
勿論最後の最後でタイトルの意味が判明して、かをりの死が規定事項だったのだと理解しました。
初志貫徹。
想定通りの終わりを迎えられたのですから、そういう意味ではこれ以上無い終わり方だったのかもしれない。
でも、でもさ…。
辛いなって。
繰り返される「大好きです」が切なくて切なくて。
やっぱり僕はこの終わり方は受け入れられないなと、これ書いてる今でも思っちゃいますね。
とまあ、そんな個人的な感情は一先ずこれ位にしまして。
「音楽家・有馬公生」の物語として、改めて振り返ってみると、これ程までに綺麗な物語は無いんだろうなと考える訳です。
納得できないけれど、そういう私情は抜きで、公生を愛した2人の女性が公生に齎した”モノ”について僕の解釈を書いてみます。
母とかをり、2人の死を経験して、公生は晴れて1人の音楽家として生まれたんじゃないでしょうか。
早希が生んだ「ピアニスト」
自らの死期を悟った2人の女性は、それぞれに公生を「音楽家」として成り立たせようとしてました。
最初は公生ママ・早希。
自分に時間が無い事を知った早希は、スパルタ指導で公生に厳しく当たりました。
息子に憎まれても構わない。
ただ、公生が1人になっても生きて行けるように…。
全ては愛しいわが子の為に。
早希が考えたのは「ピアニストとしてのリアリティのある生活」だったのかなと。
ピアノで飯を食っていくと言っても、大雑把には2つの道があると思います。
プロのピアニストになる道と学校や教室などで後進の指導に当たる先生になる道と。
前者は茨の道の筈です。
どんな職業にも言えることでしょうけれど、プロとして生計を立てられるのはほんの一握り。
いくら才能があっても、必ずしも成功する保証も無く。
夢は夢のまま終わる可能性が高い道です。
後者は、それに比べればグッとハードルは低くなります。
手に職という訳では無いかもですが、「他人を教えられる程ピアノを弾ける」というのは、それだけでくいっぱぐれる事は無い気がします。
希望としてはプロの道、それが叶わないならばせめてピアノで食べていけられるように。
その為に「譜面に忠実に弾く」事だけを叩きこんだ。
悲しいのは、そんな母の想いが公生に伝わっていなかった事ですよね。
“生きた音”を奏でていた公生は、母の愛を見つけられずに、段々と音に感情を乗せられなくなっていった。
文字通り「譜面の音」を出すだけになってしまった。
そうなると、プロの道は難しいのでしょうね。
プロの音楽家ともなると上手いのは当たり前で、何より、人の心を揺さぶれないとなれないイメージがあります。
自分の音で他人を感動させて初めてプロになる…みたいな。
必ずしもそんな事は無いのかもしれませんけれども、少なくとも今作ではそういう考えが確かにあったと思います。
「ヒューマンメトロノーム」とか「母親の操り人形」とか。
この当時の公生を評する代名詞は、どれもこれも良い意味ではありませんでした。
「人形」と言われてる通り、「感情の無い、正確だけでつまらない音」という評価。
早希の教えを忠実に守ったまま公生が育ったとしても、大成はならなかったと推測できます。
プロにはなれず、どこかの教室で後進の指導に当たって食べていくという道しか残されていなかったのかなと。
とはいえ、それがまるで意味が無かったという訳では無いんですよね。
それを証明していたのが武士の存在。
有馬のライバルを謳う武士は、「ヒューマンメトロノーム」であった公生の演奏に憧れていた訳ですからね。
全く他人を感動させられないという事では無いと分かる部分です。
しかし、武士は少数派なんでしょうね。
ライバルという立場では無く、一観客としてこの時の公生の演奏に感化させられた人は少なかったと見え、故に大成は難しかったのかなと。
かをりが蘇らせた「ピアニスト」
対してかをりは、全く逆のアプローチでした。
早希の厳格な指導が始まる前の生きた音を奏でていた公生の演奏に触れて、心を揺さぶられたかをりは、公生に「かつての音」を取り戻させてくれました。
譜面の音を出すんじゃない。
君が感じた音を出すんだ。
出会った時からそう何度も何度も公生に言い、かをり自身も譜面なんか無視して好きなように音を出して、それを公生に聞かせた。
自由奔放で快活なかをりに心魅かれた公生は、次第に生きた音を奏で始めていく。
感情を乗せた音を。
そんな公生の音は、人を感動させる事の出来る音。
かをりもそうだし、紘子もそうかな。
絵見、凪、俊也君。
多くの人の心を揺さぶってきた。
ダジャレじゃないんですが、2人の女性が自らの死期を悟り、指揮を取って、公生(後世)に遺していった「1人の音楽家」。
早希が遺した「譜面に忠実な音を出せる確かな腕を持つピアニスト」。
かをりが遺した「自分の感情を音に乗せ、観客の心を揺さぶるピアニスト」。
2人が遺した「2人のピアニスト」が1人になって、これからの「音楽家・有馬公生」が生まれたのかなって。
早希だけ、かをりだけ…という感じでどちらかだけでは、決して生まれなかった1人のピアニストが生まれるまでの物語。
かをりは死なない
愚痴ぐちと申し訳ありません。
あんまりにも無念な最終回だったもので。
それでも、公生がピアニストとして新生する物語として捉えると、完璧なまでに纏まっていて、やっぱり凄い作品だなと気づかされます。
悲恋でしたが、確かに公生の中にかをりが残った事も分かる物語になっていました。
「ONE PIECE」のヒルルクの言葉が蘇りますね。
「人はいつ死ぬと思う…?
…人に忘れられた時さ…!!!」
公生の中に刻まれたかをりの人生。
彼女は死んでません。