オモチャとしてのラストを飾った「トイ・ストーリー3」
オモチャは子供に遊んでもらうための存在である。
子供の為に尽くす存在だ。
ウッディの行動動機の中心には常に「アンディ」がいました。
大好きなアンディの為に。
自分と一番に遊んでくれて、大事に扱ってくれる少年の為に。
オモチャとしての本懐に基づいて行動していたのですよね。
だからこそ、「3」は「完璧な結末」だったと思います。
ウッディにとって、アンディ以上に大切な存在はいなかった筈。
それでも彼に付いていったら、ウッディはオモチャとしてはいられなかったですよね。
アンディは大学生に成長して、既にオモチャで遊ぶような年齢ではなくなってしまいましたので。
大切に仕舞われるか、棚に飾られるか。
いずれにしても、オモチャとしてはいられなかったのですよね。
それが分かっていて、そして、最後に写真で「オモチャで幸せな顔をしたアンディ少年」を見たからこそ、決断したのでしょうね。
オモチャとしての本懐を貫くことを選んだ。
それが大好きな少年との別れを意味していることを分かった上で、ウッディはオモチャであり続けることを決意したと思うのです。
言うまでもなく、「トイ・ストーリー」はオモチャがオモチャらしく生きることを活き活きと描いたシリーズです。
だからこそ、ウッディの最後の決断は、完璧な結末と呼ばれるのでしょう。
これ以上ない終わり方をしたのに、何故続編が!?
確かめたくて見てきましたが、あぁ納得。
アメリカ人らしいというか、なんというか。
真の完結編とかいうのではなくて、「3」と並ぶもう1つの完結編として捉えたい一作でした。
何が違うんだと思われるかもですが、この微妙なニュアンスを察して欲しくて、感想を書いていきます。
ウッディとしてのウッディの物語の終わり
全編に亘ってかなり笑えました。
まさか最後の最後のピクサーのエンドロゴでも笑わされるとは。
笑える作品大好きな僕にとっては、それだけでも大満足だったのですけれど、内容でも満足感高かったですよ。
笑える一因でもあって、満足感を高めてくれたのがフォーキーです。
ボニーがゴミである先割れスプーンとゴミで作ったゴミ。
おっと、悪口みたいになっちゃうけれど、そうじゃないです。
別にdisってる訳じゃなくて。
ウッディ達がオモチャとしての誇りを持ってるのならば、フォーキーはゴミとしての誇りを持ってるわけで。
いや、多分。
別に彼も生まれはゴミじゃなくて、コンビニのパスタをくるくる巻くために生まれて来たのかもしれませんけれど。
どんな用途であれ、1回使ったらゴミとして捨てられることを前提としている以上は、ゴミとしての誇りを持っていても不思議ではないわけで。
変に突っ込んでいくと泥沼に嵌りそうなので、深くは考えないでおくと、それでも彼は自分をゴミとして譲ろうとしてなかったのは間違いありません。
ゴミだからこそ、ゴミ箱に惹かれ、ゴミを纏って、ゴミとして焼却される。
それが偽らざるフォーキーのゴミとしての本懐だったに違いありません。
彼の心の声を代弁するならば「ゴミとして焼かれたい」だったんじゃないでしょうか。
しかし、そんな彼がウッディに説得されて、オモチャとしての生き方を見つけたのは、今作を語る上では外せない要素ですね。
フォーキーがどんな理由でオモチャとしてボニーの下へ帰ることを決めたのかは別にどうでもよくて。
大事なのは、ゴミとしての生き方を捨てたことですよ。
ある物が、その物たらしめる存在理由。
オモチャにとっての「子供に遊んでもらいたい」がそれならば、フォーキーにとっては「ゴミ箱に捨てられたい」。
そんなフォーキーにとっての全てを捨ててまで、違う存在理由を見出した。
最後のシーンでは、自分と同じようにゴミから生み出された「新しい友達」に対して、オモチャであることを誇るように語れるまでになってました。
「4」で表の主人公がウッディならば、裏の主人公がまさにフォーキーですよね。
全く同じ結末を選んだ、しかし、立ち位置が入れ替わった表裏の関係。
まさにウッディは、オモチャとしての本懐を捨てたわけですよ。
ずっとオモチャとして生きてきたウッディが、初めて自分の心の声に従ったのです。
「オモチャなのだから」。
「オモチャとしては」。
ウッディの今までの行動って、こういった言葉を頭に付けると、ストンと腑に落ちることばかりでした。
それが初めて「オモチャとしてはあり得ない決断」をしました。
勿論やってることは、他のオモチャの為だったりして、そこが彼らしいとは思うのですが、ウッディ自身は「自分が子供に遊んでもらう為」には行動していなくて。
自由にのびのびと。
生きたい人生を謳歌してるようなラスト。
ウッディのこれまでを無理やり人間に当て嵌めれば、親が引いたレールの上を走り続けて、そのままゴールしたのが「3」。
今回は、その先のレールからは脱線して、レールのない道を自分の意志で繰り出したってところですね。
「親が引いたレール」なんて例えをすると、フィクションでは大抵不幸な・自分の意志では無い形のように捉えられちゃうかもですが、僕はそういう否定的なニュアンスは持っていません。
「3」はしっかりとウッディ自らが前向きに決断したポジティブな終わりだったと信じています。
「4」では、その時の決断を否定することはなく、それでいて、ウッディの自由意思で選び取った結末だったのかなと思います。
故に、
「3」と並ぶもう1つの完結編
なんです。
「3」はオモチャとしてのウッディの物語の終わり。
対して「4」はウッディとしてのウッディの物語の終わり。
それぞれが尊重しあって、独立した終わりなのかなと。
今回珍しくというか、初めて「悪役」のいない物語でした。
だからか、夢のある「動いて喋るオモチャの物語」をただただ楽しいだけの物語として鑑賞出来ました。
バズ達とのお別れとなったので、ちょっぴりしんみりとする最後でしたが、初めて見せたウッディ自身の決断を尊重したいと心から思える素晴らしいラストでした。
終わりに
ああ笑った。
フォーキーもダッキーもバニーも最高。
オモチャの映画として、最後は一層笑えて楽しい気分にさせていただけました。
面白かったです。